2014年1月27日月曜日

煙のように消えた鬼頭先生

平成十六年十月二十一日(火)

 奥岡先生は化学の授業中に湯川に質問され、立往生してしまった。「明日までに調べてくる」と言った手前、どうしても今晩中に答を出さなければならない。専門書を片っ端から調べてやっと答が分かった。時計を見ると九時半だ。思わぬ時間がかかってしまった。しかし、これで生徒に馬鹿にされないで済むと思いながら職員室の戸締りを始めた。学校にはもう誰も残っていない。
 電話が鳴った。
 こんな遅く電話をかけてくるなんて何の用だろう。奥岡は教頭の机のところに行き、受話器を取った。
「はい、北川高等学校です」
「済みません。私、鬼頭ですが、主人はまだ学校でしょうか」  
鬼頭先生の奥様からだ。
「もう帰られたと思いますが、ちょっと待って下さい。机を見てみますので」
机を見るときれいに片付いている。本箱の蓋が閉じられ、鞄もない。電話口へ戻った。
「机は片付いていますし、鞄もないので帰られたと思いますが」
「そうですか……。実は、まだ帰ってないので学校かと思いまして」
「数学研究室かもしれません。研究室に電話しますのでこのままお待ちください」  
研究室に電話したが、誰も出ない。
「もしもし、研究室にもみえませんが」 「そうですか。夜分お手数をおかけしました」
 鬼頭先生は柔道部の顧問である。五十三歳で背が高く筋肉質。いつも髪型は七、三にきっちり分けている。もみあげは左右の長さが同じになるように、毎朝鏡の前でチェックする。学校から帰る時は机の上にある物を全部きれいに片づける。本立ては黒塗りで蓋ができるようになっている。蓋をすれば時代物の木箱が置いてあるように見える。本立てに並んでいる教科書や教材は順番が決まっている。左から五番目は『大学への数学 十月号』と言う具合だ。手紙を開封するときは、下敷きの上に手紙を置いて、定規を手紙の端から五ミリのところに平行にあてがい、カッターで切る。切り取った細い紙をゴミ箱に捨て、下敷きとカッターをしまってから手紙を読み出す。
 奥岡は鬼頭先生の真似をしようとしたが到底できない。そんな悠長なことは性分に合わない。じれったくて、指でびりびりっと、時には中の書類まで破いてしまう方だ。大体、奥岡は鬼頭先生と正反対で、背が低く、頭の毛はボサボサ、服はよれよれ、いつもうっすら髭が生えている。机の上は教材、教具の他、湯呑み、タオル、菓子、割箸、カップヌードル、ティッシュの箱、シャツなどが山積みになっている。机の下にダンボール箱がふた箱鎮座しており、椅子を机の下に入れることができない。机の周りは泥だらけで、靴下やスニーカー、化学薬品の瓶などが散らばっている。この四月着任早々、生徒から「ホームレス」という渾名をもらっている。家では母親が口うるさく「慎吾、部屋を片付けたらどうなの。そんなだらしなくて、お前、よく先生が務まるねぇ」と言う。しかし、二十三人の応募者の中から選ばれたのである。
  奥岡は受話器を置いて、あんな几帳面な鬼頭先生が家に連絡を取っていないのは変だ。しかし、先生は生活指導部長だから、帰宅途中に生徒が事件に巻き込まれ、生徒の家か警察にでも寄っているのではないだろうかと思った。
 奥岡は学校を出るとき玄関にある鬼頭先生の下駄箱の蓋を開けてみた。中は空っぽだった。
 鬼頭先生の妻、早苗は夫の帰りがあまりにも遅いので気がかりだった。指導部長であるから、生徒の取り調べとか補導会議で遅くなることがある。そんな時には必ず電話をしてくるのだが、今夜に限って電話がかかってこない。結婚以来こんなことは初めてだ。もう十時だというのに……。子供がいれば少しは気がまぎれるが、息子は京都の大学に通っており、名古屋にはめったに帰ってこない。息子に電話しても「また心配症が始まったね」と言われるのが関の山だ。
  十時七分に電話がかかってきた。早苗はホッとして愚痴のひとつも言おうと思い、受話器を取るなり言った。
「あなた、どうしたのよ」
「えっ、あの、松井さん?」
「松井? 違いますよ」
 ガチンと電話が切れた。相手の女性は間違い電話を謝らない。早苗はイライラした。誰かにこのことを話さなければ気が狂ってしまいそうだった。かといって警察に電話するのも気がひけた。
 早苗は、その晩ほとんど一睡もすることができなかった。

十月二十二日(水)行方不明二日目

 午前八時二十分、職員室に電話がかかってきた。小谷教頭が受話器を取った。
「はい、北川高校です」
「私、鬼頭といいますが、教頭先生は……」
「ああ、鬼頭さん、小谷です」
「あの、主人、学校に来てませんか」 
「えっ」と言って、小谷は職員室を見回した。
「まだ見えてませんが。どうされました?」
「実は、昨晩から主人が家に帰ってきてないのです」
「ええっ」
「心当たりを全部あたってみたのですが」
「それは、ご心配ですね。学校に来られたらすぐ電話します」
「すみません」
 出勤時間の八時二十五分になっても、鬼頭先生は現れなかった。教頭は職員室の連絡黒板の欠勤欄に「鬼頭」と書いた。時間割を見ると鬼頭先生の授業は高二が四クラスある。
 学年主任と相談して、四クラスとも自習とした。一時間目と二時間目の自習監督に高二副担任の奥岡がつくことになった。教務部長は教務室から自習課題のプリントを持ってきて奥岡に渡した。
 職員朝礼が始まった。朝礼はまず教務部長から成績処理関係の連絡があり、次に部活動委員長から「延長願い」について報告がなされ、最後に教頭が言った。
「鬼頭先生は今日欠勤のようですが、先ほど奥様から、昨晩から家に帰って来てないという電話がありました。どなたか先生の所在についてご存知の方はいらっしゃいませんか」 教員の間にどよめきが起こった。鬼頭先生は昨年十一月一日の学校創立記念日に勤続三十年の表彰を受け、この三十年間、無遅刻・無欠勤であった。鬼頭先生なら欠勤だけでもニュースだというのに所在が分からないとは大事件であった。誰も心当たりはなかった。 教頭は「ひとまず様子を見てみますのでこの件は生徒には伏せておいて下さい」と付け加えた。
 八時三十分、ショートホームルームのチャイムが鳴り、担任は各ホームルームに向かった。毎朝、黙祷の時間があり、放送で「天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを……」と祈りの言葉が流れる。その間、全校生徒は起立して黙祷する。
 八時三十五分、廊下をバタバタと走る音が聞こえたかと思うと、職員室のドアが勢いよく開き、森本先生が「遅れました」と言って出席簿をつかんで、一年A組の教室に走って行った。
  一時間目のチャイムが鳴り、奥岡が採点途中の化学の答案を持って二年A組の教室に行き、ドアを開けた。生徒は全員静かに着席している。こんなことは奥岡の授業ではありえない。生徒は緊張して鬼頭先生を待っていたらしい。さすが鬼の鬼頭先生だけあると思って教室に入った。
「先生、教室間違ってませんか。一時間目は鬼頭先生です」と最前列の近藤佑一が言った。奥岡は「ああ」と言って教壇に立ち、生徒を見渡して言った。
「今日、鬼頭先生はお休みで自習だ。先生から預かっている課題があるから、この時間中にやって提出するように」
 自習と聞いて生徒は緊張のタガが外れ「自習だ、自習だ」と大喜びとなった。鬼頭先生は「泣く子と鬼頭には勝てぬ」と言われるくらいで、学校中で最も厳しく、最も声が大きい先生である。授業中の声は校庭を歩いていても聞こえてくるほどだ。生徒を叱る場合は、職員室のガラスがビリビリ共鳴し、職員室にいる女子事務職員は直立不動の姿勢になってしまう。しかし、叱り終わって生徒が職員室を出ると、まるで態度が変わり、にこやかに隣の先生と話し出す。授業中、鬼頭先生が親父ギャグを言った場合は、生徒は無理して笑う。しかし、あまり笑っていると、先生は豹変して「何がそんなに可笑しい!」と雷を落とすから生徒は笑っていいのやら、いけないのやら、常に先生の顔色をうかがっていなければならない。五十分の授業は緊張のしっぱなしで、鬼頭先生の授業が終わると、生徒はその日の全ての授業が終わったかのように疲れる。鬼頭先生の授業の次の授業は休憩時間になってしまう。
  一部の生徒はまだ騒いでいた。奥岡は一喝した。
「騒いでいる者は名前を控えておいて、後から鬼頭先生に言うぞ」
 生徒はチクリだ、チクリだと言っていたが、次第に静かになり、課題のプリントをやり始めた。奥岡は生徒を見回すと、三列目に空席があった。 「そこは誰だ。欠席か」と訊くと、後ろの席の石橋明宏が「山田です。トイレです」と答えた。 奥岡は出席簿を開き、一時間目の欄に「自習・奥岡」と記入した。しばらくして机間巡視を始めた。生徒は思い思いに数学の問題を解いている。生徒の様子を見ながら廊下側の最後列に座っている斎藤郁代のところに来ると、郁代が小声で言った。
「先生、トイレの方から人のうめき声が聞こえてきます。気持ち悪くて…… そら、また聞こえるでしょ?」
 奥岡は聞き耳を立てた。
「いや、何も聞こえ……、あっ、何か聞こえる」
「聞こえるでしょ」
「うむ……、ちょっと見て来るか」と言って、教室の後ろのドアを開け廊下に出た。
 二年A組は二階の一番東にある教室で、その東隣りが男子用のトイレになっている。  トイレに近づくとわめき声のような鈍い音が聞こえる。続いてドンドンドンと音がする。奥岡はトイレのドアを開けて、「誰かいるか」と言った。大便用ブースから「誰か、開けて」と泣き声が聞こえてくる。
「誰だ」
「山田です。ドアが開きません」
「よし、待っとれ」 奥岡はブースのドアを順に開けた。四番目が開かない。 「山田、ここか」
「はい」
まだ泣いている。男のくせに情けない奴だと思ってノブを回した。回らない。引いても押しても動かない。ノブをガチャガチャやってもダメだ。こりゃ、校務員さんに来てもらわなきゃならんなと思って、ノブを押したままゆっくり左に回したら。カチャっと音がして開いた。山田がよろよろと出てきた。
 奥岡は教室に戻った。机の間を教卓に向かって歩き出すと、明広が山田に「遅っせーな。大の方か。手、洗って来たろうな」と言うのが聞こえた。 奥岡は教卓に座り生徒を見渡すと、郁代が黙って手をあげた。奥岡は郁代のところに行って小声で言った。 「山田がトイレに閉じ込められてたよ」
 郁代は「先生、まだ変な音が聞こえてます」と言った。まさか、またトイレに閉じ込められている者がいる訳がないと思ったが、「分かった。もう一度見て来る」と言って、トイレに向かった。近づくと鈍い音が聞こえる。 トイレのドアを開け「誰かいるか」と言った。反応がない。確かにブウン、ブウンという変な音が聞こえる。何かに共鳴しているような音だ。天井を見上げると、水洗用の水槽が設置されており、パイプが水槽から左右に伸びている。パイプが共鳴音を出しているようだ。ねじでも緩んでいるのかと思いながら、奥岡は掃除用具箱を開けて、たわし付きデッキを取り出した。デッキをさかさまにして高く持ち上げ、今度変な音がしたらパイプを叩こうと待ち構えた。またブンブン、ウオーン、ウオーンと聞こえてきた。今だ、と思って、パイプをガンガンと叩いた。音が止んだ。しばらく様子を見たが変な音はしない。やはりパイプだ。パイプを新品に交換してもらわなければと思って教室に戻ろうとした。すると、またコーン、ゴン、ゴンという鈍い音が聞こえる。 まだ鳴ってる、騒がしいトイレだ、でも、まあいい。原因が分かったのだからと思って教室に戻った。
 郁代のところに行き「あれはトイレのパイプの音だ。パイプが共鳴音を出しているんだ」と言った。 奥岡は教卓に戻り、答案を入れる紙袋から化学の答案を取り出し採点を始めた。生徒は静かに問題を解いている。二十分ぐらい採点したところでチャイムが鳴った。
 奥岡が職員室に戻ると、二年B組の松岡諒汰と松下和博が担任の安藤先生のところに来ていた。安藤先生の机は奥岡の机の隣にある。二人ともうなだれている。少し離れて湯川が立っている。松岡のノートパソコンが紛失したらしい。
「お前の勘違いじゃないのか。ちゃんとロッカーに入れておいたんだな」
「はい、間違いありません。ショートホームルームが終わって、すぐロッカーに入れました。ロッカーに入れる時、和博が見てます。なぁ和博」と言って、松岡は和博の方を向いた。和博は「はい、見ました」と言った。
「それで、今見たらなかったのか。大体、学校に高価なものは持ってきてはいかんと言っとるじゃないか」
「すいません」
「しかし、困ったな、今度の授業中にロッカー検査をしてみるが……。そら、もう授業だから、教室に戻って」 松岡と松下が職員室を出て行った。安藤先生は二人の背中を見ながら世話のかかる奴だと思って、振り返ると湯川が立っている。
「湯川、お前、何の用だ。質問? もう授業だろうが」と言って、安藤先生は立ちあがった。
 二時間目の授業のチャイムが鳴り、奥岡は二年B組の教室に向かった。生徒は既に課題自習ということを知っている。教室に入ると「起立」という号令がかかり、「礼」で、生徒は一斉に頭を下げ、着席した。奥岡は出席簿を開けて「欠席は?」と訊くと、湯川が前へ出てきた。
「先生、トイレに行っていいですか」
「なんだ、授業が始まったばかりでトイレ? 休み時間になぜ行かないんだ」 「職員室に質問に行ってました」
 奥岡は湯川が安藤先生のそばに立っていたことを思い出した。
「しょうがないな。今度から注意しろよ」
 湯川は慌てるようにして教室を出て行った。 生徒は課題をやり始めた。しばらくして、廊下からパタン、パタンとロッカーの蓋を開けている音が聞こえてきた。生徒のロッカーが廊下に並んでいる。ロッカーには鍵がかかっていない。以前は鍵がかかるようになっていたのだが、鍵をなくしたり、壊れたりで、ロッカー担当の先生の仕事が煩雑になり、三年前から鍵のないロッカーに切り替わっている。貴重品などの紛失物があると、先生が授業中や放課後に念のためロッカー検査をする。プライバシーの侵害だが、生徒からも保護者からも文句が出ない。

十月二十三日(木)行方不明三日目

 鬼頭先生の消息は依然分からなかった。奥岡は昼食を食べ終わって職員室の休憩コーナーのテーブルに座ると、鬼頭先生の話で持ちきりだった。 「一体どうしたんだろう」
「いつも血圧が高いって言ってみえたから、心臓麻痺でどこかの病院に担ぎ込まれてるんじゃないですか」
「だったら病院から連絡があるはずだ」
「鬼頭先生はずっと指導部長だったから、いろいろあったんじゃない? 生徒に恨まれるとか」
「そういえば、処罰が厳しすぎると食ってかかった父兄がいましたね」
「ああ、後藤慎一ね、放校になった」
「あいつなら仕返しをするかもしれんなぁ」
「そこまではしないよ」
「でも、卒業生が先生を呼び出して猫ヶ池に突き落としたっていう話を聞いたことがありますが」
「ああ、そんなことあったね」
「卒業生かも知れんが、チンピラならあり得るな」 奥岡が口を挟んだ。
「そうそう、鬼頭先生、この前チンピラに取り囲まれて一触即発になりそうでした」
「奥岡先生、そこに居たんだってね」
「はい、十日ぐらい前でしたか、放課後、高一の生徒が職員室に駆けこんできて、生徒がたかりにあってますって言うんですよ。鬼頭先生は、よし! と言って、すぐ現場に駆けつけたんです。私も後から走ったんですが。現場に着くと六七人のチンピラが、生徒二人を取り囲んでるんですよ。鬼頭先生は、君たち、うちの生徒に何の用だと怒鳴ったら、チンピラのリーダー格が、なんだ、てめー、何にもしてねーよ、話をしてるだけだ、おめー先公か、と凄むんです。鬼頭先生は、ああ、俺は北川高校の鬼頭だ。生徒をたかるとは、警察に突きだすぞ、と負けていなんです。チンピラは、じじいの癖に生意気言うんじゃねー。貴様、家に火つけたろか。おう、先公、眼鏡取れ、と言って鬼頭先生に近づいたんですよ。ところが、鬼頭先生びくともせず、君たちどこのチンピラだと言ってリーダーを睨みつけ、遠藤組の下っ端だな、桐山を知っとるだろう、と言うと、チンピラの大将、それがどうしたって言うんだと言って、鬼頭先生を手で押そうとしたんです。でも先生、ひらりと身を交わして、大将はバランスを崩して、貴様、味なことするじゃねーか。おい、やっちまえ、と言って鬼頭先生を取り囲んだんです。これは大変なことになると思っていると、ピーポーピーポーとパトカーが来たんです。連中、覚えとれよ、と言って逃げてきました」
「そうか。その連中に仕返しされたんかも」
「ボカボカに殴られ、どっかに捨てられてるとか」
「その、桐山、知ってるよ。あいつは学校一の悪で、なんでも遠藤組の用心棒になって、他の組に貸した金を取り返しに行くらしいよ」
「それは凄い。じゃあ、仕返しはないかも」
「いや、そりゃ分らないですよ。チンピラのことだから」
「考えられんことはないなぁ」
 五時間目の授業の予鈴が鳴って、弾けるようにどの先生もテーブルから立ち上がり、自分の机に戻って行った。

  十月二十四日(金)行方不明四日目

  放課後、臨時職員会議があり、教頭から鬼頭先生に関する経過報告がなされた。鬼頭先生から何の連絡もない事。奥様が昭和警察署に届けた事。病院に最近担ぎ込まれた人の中に鬼頭という人はいない事等であった。教職員からもこれといった情報はなかった。校長が来週の月曜日になっても鬼頭先生の消息が分からなければ、ショートホームルームの時、全校放送で鬼頭先生が行方不明だと言うことを生徒に伝えようと思うと言った。 すぐ、長老の松下先生の手が挙がった。
「それはまずいですよ。この時期、みだりに生徒を動揺させるべきではないでしょう。ただでさえ定期考査が終わったばかりで、生徒は浮き足立って授業に実が入っていません。そこへ、鬼頭先生が行方不明などという事を発表したら、生徒は大混乱になります。保護者に伝わりますし、新聞社やマスコミが騒ぎたて、職員室にテレビカメラが持ち込まれ、下校途中の生徒がテレビ局に捕まって、あれこれ聞かれますよ。鬼頭先生や学校のことについて根も葉もない情報が流れ、マスコミが何を書きたてるかわかりません。ここは慎重に対応すべきじゃないですか」  すかさず、若手の朝霧先生の発言があった。
「いや、早急に生徒に伝えるべきです。今まで何の手掛かりもないのですから、ほんの些細な情報でも役に立つかもしれません。生徒は先生をよく見てますから、生徒の誰かが、鬼頭先生の帰宅途中を見かけたとか、いつもとは違う行動があったとか、何か手がかりがつかめるのではないですか」  学年主任の酒井先生が手を挙げた。
「私も発表すべきだと思います。マスコミや世間体を気にしていたら何もできませんよ。今、鬼頭先生は、失礼な言い方かもしれませんが、どこか人目につかないところで、怪我をして倒れているのかも知れません。連絡を取りたくても取れない状態かも知れないのです。警察の方も鬼頭先生だけにかかりっきりという訳にはいかないでしょう。本校生徒は六百人います。生徒全員と保護者を併せて探せば見つかると思います。一刻を争う事態かも知れないのですよ」
 進路部長の伊東先生が折衷案を出した。
「月曜の朝は時期尚早と思います。火曜日の正午まで待って、それでもなお鬼頭先生が現れなければ、五時間目の授業が始まる前に全校放送してはいかがでしょう」
 これに対して、五時間目の授業がある中山先生は、それでは生徒は大混乱となり、五時間目は授業が成立しなくなると反論を出した。その後しばらく喧々諤々があり、校長が結論を言った。
「先生方の意見はよくわかりました。ありがとうございました。私は早急に対応すべきだと思いますので、明日の朝発表します。なお、マスコミが嗅ぎ付けると思いますが、窓口は教頭と事務長のみに絞ります。ご協力ください」

十月二十七日(月)行方不明七日目

 職員朝礼の時、教務部長から鬼頭先生の授業を当分の間、数学科の先生が代りに担当するという連絡があった。その他諸連絡が終わって、最後に総務部長が「職員室備え付けの懐中電灯がなくなっていますが、どなたか返し忘れている先生はいませんか」と訊いたが、誰も心当たりはなかった。チャイムが鳴って、ショートホームルームが始まり、校長から放送があった。
「全校の生徒諸君に緊急の連絡をします。静かに聞いて下さい。実は、十月二十一日から本校の鬼頭先生が行方不明になっております。警察とも連絡を取っていますが、今のところ何の手がかりもありません。そこで、諸君にお願いがあるのですが、鬼頭先生の行方について何か心当たりのある生徒はいませんか。もしあれば担任の先生に申し出て下さい。行方でなくても、最近鬼頭先生に関して、いつもとは違う行動があったとか、発言があったとか、どんな些細な事でも結構ですので情報を提供して下さい。なお、マスコミが騒ぐかもしれませんが、諸君は慎重に対応して下さい。取材があっても断って下さい」
 奥岡は職員室で校長の話を聞きながら、「いつもとは違う行動」という部分で引っかかった。 二十一日に奥岡が理科研究室にいた時、六時頃だったか鬼頭先生が研究室に来たことがあった。
「お仕事中済みません」
「あ、何か御用ですか」
「いや、あのね、ビニール製の手袋はここにありませんかね。あれば一つ貸していただきたいのですが」
化学薬品を扱う実験用にプラスチック手袋は常時準備してあるので、奥岡は「ああ、あります」と言って、理科準備室からひと揃い持ってきた。
「使い捨てですので、返してもらわなくてもいいです。何に使うのでしょう」
「ああ、あの、高二の廊下の手洗い場がね、詰まっていて、今日中にきれいにしておこうと思って」
 奥岡は、そうですか、先生も大変ですね、と言ったことを思い出した。しかし、今考えてみると何か変だと思った。手洗い場の掃除担当は二年A組だから、明日にでも生徒にやらせるべきなのに、鬼頭先生自ら手洗い場を掃除するとは、よほどきれい好きで、放っておけないのだろう、ぐらいにしか考えなかった。
 校長の全校放送が終わると、学校中大騒ぎになった。職員室まで生徒の騒ぐ声が聞こえてくる。
「めっちゃ、すげー、テレビドラマじゃん」
「やばー、死んどるかもよ」
「馬鹿言わないでよ」
「あの超でっけー声、もっぺん聞きてー」
「まじ? いつもビビってるくせに」
「うっせー」
 奥岡はその日の授業が二時間目からで、生徒の熱が冷めた頃だから内心良かったと思った。  二時間目の授業のチャイムが鳴った。奥岡は化学の教科書、ノート、二年A組の答案の束、それから、いわゆる閻魔帳と言う成績帳を持って教室に行った。
 大いに騒いだ後だったせいか、生徒の態度は普段とあまり変わらなかった。答案を閉じてある紐をほどきながら、束の表紙に控えておいた平均点を見ながら、 「学年の平均点は四一・三点、このクラスは三十八・七点だ。点が取りやすい問題を出したのに、みんな勉強してないな」と言って、答案を返し始めた。
「青木、青山、安東、伊藤、宇佐美……」
  全部答案を返し、各問題を順に解説していった。四十分ぐらいかけて全ての解答と解説を終え、「採点間違いのある者は、答案を持って前へ来なさい」と言った。 七八人の生徒が教卓の前に並んだ。最初に並んだのは椙山佳代だった。
「先生、合計が違ってます。十点少ないです」
「すまん、すまん」
  奥岡は答案の合計点を訂正して、「えっと椙山か、ちょっとそのまま、まだ席に帰るなよ」 奥岡は閻魔帳をめくり二年A組のページを開けた。何と言う事だ! 生徒の成績を閻魔帳に記入せずに答案を返してしまった。大失態だ。奥岡は立ち上がった。
「みんな、申しわけない、閻魔帳に点数を書くのを忘れた。答案を全部回収する。えっと、みんな答案を半分に折って、後ろの生徒は集めるように。採点間違いの生徒は、答案の余白に採点間違いと書いて提出しなさい」
 男子生徒は「なんだ、なんだ、新任はこれだから困る」とか、女子生徒は「先生、しっかりしてよ」と、ぶつぶつ言いながら答案を出した。
  奥岡は、生徒が騒ぐ中、一枚一枚答案を広げ、束ねて数を数えた。欠席がないから四十枚あるはずと思って、二回枚数を数えた。四十枚きっちりある。あと五分ぐらいで二時間目が終わる。奥岡は生徒が騒いでいる中、黙々と点数を閻魔帳に記入し始めた。記入しながら、生徒は俺のことを馬鹿にしていると思い、自己嫌悪に陥った。 最前列中央に座っている林直美が言った。
「先生、この前、鬼頭先生も答案を回収しましたよ」
「えっ、鬼頭先生が、まさか」
「ホントです。それも、クラス全員、家に電話がかかってきたんです」
隣に座っていた山本直人が「僕なんか、塾に行ってたから、夜の十時ごろ電話がかかってきたんですよ。採点で重大なミスがあったから、明日の授業で回収するって」
 奥岡は緊張がほぐれるような気がした。あの几帳面の権現先生でも失策があるのか、俺だけじゃないのか。 終業のチャイムが鳴った。奥岡は立ちあがり「今日終礼のホームルームのとき、担任の先生から答案を返してもらうようにするから」と言って授業を終えた。
 廊下に出ると咽が乾き、水が飲みたくなった。二年A組の教室の前に手洗い場があり、蛇口を回して手で受けて水を飲んだ。まずい。鬼頭先生がビニール手袋を借りに来た事を思い出した。水の流れを見ると澱んでいる。排水口の金具が詰まっているようだ。おかしい。鬼頭先生が汚物を取り除いたはずなのにもう詰まっているとは。排水口に手を突っ込んで金具を取り出した。水が勢いよく流れだした。金具を見ると、髪の毛やガムやらがドロドロにこびりついている。金具をきれいにした形跡がない。鬼頭先生が、流しの汚物をきれいにするために、と言っていたが、ビニール手袋は別の目的で使ったのか。でも、どうして嘘をつく必要があったのだろうと思った。
 放課後、奥岡はテニスコートに行った。奥岡はテニス部の顧問である。テニスは高校の時、テニス部に所属していたから、高一の生徒とならテニスの相手ができるが、高二となると歯が立たない。ベンチに座って練習ぶりを見ていた。試合が終わって高二の佐藤良一が奥岡の隣に座った。
「良一、お前サーブが上手くなったな」
「いや、まだまだです」
「あれは河合から教えてもらったのか」
「はい、河合先輩のサーブは凄いですから」
「うん、県大会に出場してるからな」
「はい」
 二人は黙ってテニスの試合を見ていた。暫くして、良一が思い出したように言った。
「先生、今朝の校長の放送を聞いていて、ちょっと気になることがあったんです」
「気になるって?」
「はい、鬼頭先生はいつも正面玄関から帰られますね。でも、二十一日、私の誕生日でよく覚えているんですが、部活が終わって着替えをしていると、鬼頭先生がテニスコートの脇を通られました。確か六時頃でしたが、校舎の東側の方へ歩いて行かれました。珍しいこともあるもんだと思いました」
「そうか、あの辺は運動部の生徒の使い捨てのシューズやシャツやジャージで、ゴミの山がすぐ出来ちゃうからなあ。指導部長だから今度の大掃除の段取りを考えてみえたんじゃないか。それに掃除道具の倉庫とゴミ焼却炉もあるし、その点検だよ」
「でも、相当暗かったですよ」
「うん、それもそうだな」
  そう言いながら、奥岡自身も鬼頭先生が校舎の東側に行ったことが変だと思った。
 その晩、テレビで鬼頭先生行方不明のニュースが流れた。先生の写真と学校の正面玄関の画像が映った。
「名古屋市昭和区にある私立北川高等学校の鬼頭孝博教諭五十三歳が、十月二十一日夕刻から行方不明になっています。警察で捜索していますが、今のところ何も消息がありません。事故に巻き込まれた可能性もあり、警察では学校や家族と連絡を取り、捜索を続けています」 

十月二十八日(火)行方不明八日目

  職員朝礼で、教務部長から定期考査の成績を今日の午後四時までに教務室のコンピューターに打ち込んで欲しいという連絡があった。続いて、国際交流委員会からオーストラリア研修生の受け入れについて、また指導部長代理から大掃除について連絡があり、最後に総務部長が言った。
「大掃除に関連して連絡します。名古屋市のゴミ分別の方針により、本校も来月からゴミを分別して出すことになりました。従いまして、今までのように教室のゴミはダストシュートに捨てるのではなく、分別して所定のビニール袋に入れ、西玄関のゴミ置き場に出して下さい。なお、来月からは各教室に可燃、不燃、缶・瓶用の三種類のゴミ箱を置きます。これに伴いまして、各階のダストシュートは使用できなくなります」
 一時間目のチャイムが鳴ると、教務部長の稲川先生が奥岡のところに来た。
「先生、今日一限と二限は授業がないですね。申し訳ないけど、鬼頭先生の数学の成績をコンピューターに打ち込んでもらえませんか。閻魔帳は鬼頭先生の机の中にあると思いますので」
 稲川先生と奥岡は鬼頭先生の机まで行き、小声で「鬼頭先生、無断で引き出しを開けますよ」と言って、右端の引き出しを開けた。一番上に閻魔帳がきちんと入っている。奥岡は驚いた。
「先生、この引き出しに閻魔帳が入っていることご存じだったのですか」 稲川先生は「いや、勘だよ」と言って、閻魔帳を取り出してめくっていった。 「ここが高二です。じゃ、頼みます」
 奥岡は閻魔帳を持って教務室に行き、コンピューターの前に座った。画面の「定期考査成績」から二年A組の数学を選んでクリックした。A組の表が現れた。奥岡は順に点数を打ちこんでいった。
 青木四十五点、青山八十七点、安東三十九点、伊藤五十五点……
 最後の方まで打ち込んでいくと、柳沢のところが空白になっている。えっ、どうして柳沢のところに点数が書いてないのだ。柳沢は休んだのか。確か化学と数学は定期考査二日目だったはずだと思い、教務室に掲示してある第三回定期考査時間割を見た。間違いない。一時間目が化学で二時間目が数学だ。二Aのクラスは、化学の答案を返すとき大失敗したクラスで、すぐ答案を回収したが、きっちり四十枚あったから、欠席はないはずだ。そうすると柳沢は数学を受験したことになる。それなのにどうして空白なのか。鬼頭先生が柳沢の点数を記入忘れするはずがないのに。大体、一クラスの成績四十人分を記入し終われば、表を一瞥するだけで空白に気がつくし、鬼頭先生のことだから、答案の点数と記入した点数とを確認するはずだと思った。 残りの生徒の成績の打ちこみが終わって、稲川先生に「柳沢の点が記入してありませんが」と言って、閻魔帳を見せた。
「うむ、鬼頭先生が記入漏れするなんて、どういうことだろう。ま、仕方がない、柳沢に訊いてみるしかないな。一時間目の放課に訊いてくれませんか」 奥岡は「わかりました」と言って職員室に戻る時、柳沢の顔が目に浮かんだ。青白い、痩せ形の生徒だ。保護者会で柳沢の母親を見たことがあった。丸顔で血色が良く、派手な服を着て、先生を見かける度に、「柳沢の母でございます」と言って愛想笑いをし、ぺこぺこ頭をさげていた。息子の成績が悪いからと言って、あんなに卑屈になる必要がないのにと思ったことがあった。あの分では柳沢は母親に発破をかけられているのだろう。鬼頭先生から聞いたことだが、柳沢は家に帰ると、母親が鞄の中を全部ぶちまけて、教材やプリントなどをいちいち点検するらしい。
  一時間目の終業のチャイムが鳴った。奥岡は二年A組の教室に急いだ。 「柳沢はいるか」と教室の入口で中を見渡しながら大声で言った。
「おい、ヤナ、先生が呼んどるぞ」と言う声が聞こえた。柳沢が前に出てきた。
「何ですか」
「ちょっとこっちへ来てくれ」
 奥岡は柳沢を廊下の隅に呼び出した。山口順平が「なんだ、なんだ、ヤナ、おめ―、何やったんだ」と冷かした。
「柳沢、今、鬼頭先生の数学の点数をコンピューターに打ち込んどるんだけど、お前の点数が分からないんだ。鬼頭先生が君の点数を記入漏れしたらしいんだよ。お前、数学何点だった?」
「えっ、先生に言うんですか」
「教えてくれないと、欠席になってしまうよ」
「欠席でいいです」
「お前、定期考査の欠席は、普通の欠席と違う扱いだよ。進級するとき不利になること知ってるだろう?」
「……鬼頭先生も同じ事言ってました」
 奥岡は驚いた。鬼頭先生も同じことを言っていたとは、鬼頭先生が答案を回収する時に、柳沢は答案を持って来なかったという事だ。
「そうだろ、高三に進級できなくなるかも知れないんだよ」
「はあ」
「で、何点だったんだ」
「……あのう、十一点です」
「十一点か」
「はい」
「間違いないか」
「はい」
「答案、持ってるか」
「見せるんですか」柳沢の語調が変わった。
「いや、君が点数を誤魔化しているとか、そういう事じゃないよ。ただ確認のためだよ」
 廊下に出てきた順平が遠巻きに「ヤナ、ヤナ、早よ白状しちゃえ」とまだ冷かしている。奥岡は「うるさい! 山口、あっちへ行っとれ」と怒鳴り、柳沢の方を向いて、 「答案持ってないのか」と訊いた。
「持ってません、鬼頭先生にも言いました」
「言いましたって、何を」
「答案、捨てたって」
「捨てた? 学校でか」
「いえ、家で」
「家か。じゃぁ、もう家にはないわけだな。ゴミ収集車が来るから」
「はい」 「ま、しょうがない、十一点にしておくからな。いいな」
「はい」
 奥岡は柳沢の肩に軽く手を当てて「呼び立てして悪かったな」と言った。  教務室に戻り稲川先生に言った。
「柳沢の点、十一点でした」
「そうか。じゃあ、十一点で打ち込んでおいて下さい」
 奥岡は柳沢の欄に「十一」と打ち込んだ。
 午後からは指導部会議があった。指導部では鬼頭先生が不在の間、本山先生が指導部長代行を務めている。暫らく鬼頭先生の消息について話し、その後、各学年から問題点の報告がなされた。高一では、掃除の分担区域、特に階段付近が不明瞭である点が指摘され、高二からは、松岡諒汰のノートパソコンが紛失し、目下調査中という報告があった。高三からは特に報告はなかった。その後、携帯電話の取り扱いについて話し、朝の街頭巡視の当番を決めて終わった。
  放課後、奥岡はテニス部の生徒と久しぶりにテニスの試合をして学校を七時半頃出た。家まで自転車で三十分ぐらいかかる。自転車をこぎながら鬼頭先生のことを考えた。
  一体どうなってるのだ。何の手がかりもないまま今日で八日になる。事故や事件に巻き込まれていれば、警察から連絡がありそうなものだが何もない。と言う事は、どこか人目の付かないところで倒れているか、または死んでしまっているとしか考えられない。しかし、森の中じゃあるまいし、名古屋という大都会で八日間も人目につかないでいることができるだろうか。鬼頭先生が学校の敷地内で倒れているかも知れないということで、昨日の放課後、総務部の先生と事務職員が総出で、倉庫、屋上、非常階段、理科と家庭科の準備室、図書館書庫、植え込み等、隈なく調べて回ったが見つからなかった。まるで煙のように消えてしまった。待てよ……、まるで煙のように……。そうか、分かった!
  奥岡は携帯電話で職員室に電話をした。職員室には小谷教頭だけしかいなかった。
「北川高等学校です」
「小谷先生ですか、奥岡です。分かりました。ゴミ溜めです」
「何?」
「鬼頭先生です。鬼頭先生はゴミ溜です」
「ゴミ溜めってダストシュートのゴミが落ちてくる所か」
「そうです。急いでゴミ溜めを開けて下さい」
「そこに鬼頭先生がいると言うんだな」
「はい」
「分かった」
 教頭はゴミ集積室に急いだ。走りながら、どうしてそんな所に鬼頭先生がいるのだと思った。  校舎各階の廊下の東の突き当たりにはダストシュートがある。掃除が終わると教室のゴミはダストシュートに投げ捨てられる。投げられたゴミはゴミ集積室に落ち、校務員が可燃と不燃に分別し、可燃物を焼却炉で燃やすことになっている。最近は学校近辺の住人から焼却炉から出る煙や煤に対して苦情が出ており、近いうちに廃炉にしなければならなくなっていた。
 教頭は暗くなった校庭を走った。校庭の隅に立っている照明灯が周りをぼんやり照らしている。テニスコートまで走って来ると息切れがして、そこからは歩き、やっとゴミ集積室の前に立った。月明かりに照らされて、集積室からダストシュートの四角い筒が壁沿いに三階まで伸びている。集積室は幅・奥行・高さが各々一・五メートルぐらいある。扉を見ると、かんぬきが掛かっている。かんぬきを引き抜き、扉を開けた。真っ暗だ。目を凝らして見るとゴミの山の輪郭がぼんやり浮き上がっている。悪臭が鼻につく。懐中電灯を持って来れば良かったと思った。暗闇に向かって「鬼頭先生」と叫んだ。返事がない。聞こえるのは虫の声だけだ。もう一度「鬼頭先生」と叫んだ。反響音が響く。返事がない。奥岡先生はなぜこんなところに鬼頭先生がいると言ったのだろう、臭いし、暗いし、気持ち悪い。もう一度呼んで返事がなかったら帰ろうと思って、身体をのり出し、怖さを振り払うように大声で「鬼頭先生!」と叫んだ。返事がない。近所の犬がけたたましく鳴きだし、遠吠えが聞こえてきた。
  教頭は立ちあがり、扉を閉めてかんぬきをかけ、大きく息を吸った。明日になったら、奥岡先生に文句の一つも言わなければ気が治まらないと思った。 職員室まで来ると、廊下を奥岡が走ってきた。
「あっ、小谷先生、鬼頭先生はいなかったんですか」
「ああ、いなかったよ」
「えっ、いるはずですよ」
「いや、いなかったよ。三回大声で呼んだよ」
「呼んだって? 中に入らなかったんですか」
「入ってないよ。ゴミの山しかなかった」
「入ってないんですか」
 奥岡は走り出した。教頭は奥岡の背中を見ながら、居ませんでした、とうなだれて帰って来るに違いないと思った。 集積室に着くと、奥岡は扉を開け、「鬼頭先生、鬼頭先生!」と叫びながら這いずって奥に入っていった。真っ暗だ。臭い。湿っている。ゴミをかき分けながら進んでいった。突然、頭を壁にぶつけて倒れた。携帯電話に手が当たった。そうだ、なぜ気がつかなかったのだろう。尻ポケットから携帯を取り出し蓋を開けた。画面が光り周りを照らした。左の壁に鬼頭先生の姿が幽霊のように浮き上がった。足を投げ出し壁にもたれかかっている。「鬼頭先生!」と叫んで、ゴミの中を突進した。真っ暗になった。携帯のキーを押して明るくし、鬼頭先生のそばまで行った。胸に耳を押しつけた。心臓が動いている。一一九番に電話した。
「もしもし、緊急です。こちら昭和区の北川高等学校です。教員が意識不明で倒れています。救急車をお願いします。正面玄関で小谷教頭が待ってます。小谷です。はい? 私は奥岡慎吾と言います」
 奥岡は鬼頭先生の顔を照らした。まるで死人だ。ひび割れた唇、窪んだ目、痩せこけた頬、乱れた髪。額から血が流れたような跡。教頭に電話した。
「先生、見つかりました」
「ええっ、見つかったのか」
「はい、今、救急車を呼びました。正面玄関で待機していて下さい」
「分かった」
 奥岡は鬼頭先生の後ろに回り、両脇を抱えバックしながら引きずり、外に出した。 救急車のサイレンが聞こえてきた。奥岡はその場にしゃがんだ。静かだ。虫の鳴く声が心地よい。鬼頭先生の耳もとで、「先生、鬼頭先生」と言った。目がうっすらと開いたが、すぐ目を閉じた。
 救急隊員がストレッチャーを持って走ってきた。後から教頭が走って来る。 「ここです。ここです」と言って奥岡が手を振った。 隊員は鬼頭先生を救急車に搬入した。バスケット部員七八人が、サイレンの音を聞きつけて玄関に来ていた。搬入が終わると、救急車はサイレンを鳴らし、ライトを点滅させながら闇に消えていった。救急車には奥岡が同乗し、教頭は学校に残った。 バスケット部員の浅野樟二が教頭に訊いた。
「先生、今の、鬼頭先生じゃないですか」
「そうだ。見つかったんだ」
「えっ、学校でですか。すげー、生きとったんですか」
「生きとったとは、何だ」教頭はいらいらしてきた。
「お前ら、何でこんなに遅くまで学校に残っとるんだ」
「延長願い出しました」
「延長は七時までだ。部室で遊んどったんだろう」
 部員はぶつぶつ言いながら帰って行った。

十月二十九日(水)

  職員朝礼で教頭から報告があった。
「先生方、ご心配をおかけしましたが、鬼頭先生は昨晩八時ごろ、本校のゴミ集積室で見つかりました。奥岡先生が見つけてくれました。現在、日赤病院に入院中です。なお、当分面会はできませんので、お見舞いはご遠慮下さい。また、校長からこの件についてショートホームルームで全校放送があります」
 チャイムが鳴って各担任は教室に向かった。黙想の後、校長から全校放送があった。学校中で大歓声が上った。
「すっげー、テレビドラマじゃん」
「生きとったんか。死んだと思っとったのに」
「死ぬわけないだろ」
「そうよ、鬼の鬼頭よ、鬼が死ぬわけないわよ」
「またあいつの授業か」
「あいつ、超でけー声出すからな。耳が痛くなるよ」
「そこがいいのよ。痺れるじゃん」
「おまえ、阿呆か」
「何言ってるのよ、もっぺん聞きてーって、言ってたくせに」
「うっせー」

四日後、十一月三日(月)

 午後三時頃、奥岡は見舞いに行った。病室のドアを開けると、鬼頭先生は身体を起こして本を読んでいた。
「あ、奥岡先生」
「先生、明日退院だそうで」
「お陰さまで、退院まで漕ぎつけました。あのままお陀仏かと思いましたがね。しかし、先生、よく分かったね、私がゴミ溜めにいるって」
「はあ、実は、教務部長に頼まれて、先生の閻魔帳で二Aの成績をコンピューターに打ちこんでいたら、柳沢の点が記入してないのです。柳沢に訊くと、答案を家のゴミ箱に捨てたと言うじゃないですか。でも、柳沢が答案を家で捨てる訳がないと思ったのです。先生から聞きましたが、母親が点検しますからね。だから学校のゴミ箱に捨てたはずです。ゴミは掃除当番がダストシュートに捨てますから、答案はゴミ溜めにあると思ったのです。先生は答案を探しにゴミ溜めに行かれたのでしょう」
「その通り。わたしも柳沢が答案を学校で捨てたと思ってね、ゴミ溜めに探しに行ったんだよ。でも、わたしがゴミ溜めに答案を探しに行ったと、どうして分かったのだい」
「そりゃ、普通の先生ならそこまでしませんよ。柳沢が十一点だったと言えば、十一点と記入するだけです。ところが先生は違います。几帳面な先生のことだから、確認するためゴミ溜めまで答案を探しに行かれたと思ったんです」
「そうか。その通りだ」
「ええ、それで柳沢の答案、ゴミ溜めにあったのですか」
「あったよ」
「そうですか」
「ああ、苦労したよ。あの日、学校から帰る時、職員室の懐中電灯を借りて、ゴミ溜めに行ったんだ。すぐ見つかると思ったんだがね。臭いし、暗いし、懐中電灯の光だけでは何ともならないんだ。ゴミ溜めに始めて入ったんだが、凄いよ。ありとあらゆるゴミがあるんだ。カップヌードルやべたべたのティッシュ、古い上履き、シャツ。ジュースの缶とかペットボトル。ノートや壊れた傘。そうそう数学の教科書もあるんだ。けしからんと思ったよ。それに卑猥な雑誌までね」
「そのゴミを調べたのですか」
「ああ、二回調べたよ。ゴミの山の前に座って、裾野から順番に一つずつゴミを指でつまんで、あっ、そうそう、ビニール手袋をありがとう。手洗いの汚物を取ると言ったけど、実はゴミの仕分けに使ったんだ」
「はあ、後から気がつきました」
「それで、一つ一つゴミをつまんで山を崩していって、調べたゴミは山の右側に移したんだよ。次第に左のゴミの山は少なくなり、右側の山が高くなっていって、最後のゴミまで見たけれど、柳沢の答案がないんだよ。畜生と思ったが、もう一度今度は右側のゴミの山を順に崩していって左側に移したんだ。今度は慎重にね。それでやっと見つかったんだ。柳沢が言うとおり十一点だったよ。それで、ゴミ溜めを出ようとしたら、鍵がかかっているんだ」
「校務員の山内さんでしょう。放課後、全校の鍵を全部見て回りますから」 「この前、山内さんがゴミ溜めの扉を開けたら、猫が飛び出してきてびっくりしたそうだよ。開けっ放しになっていた扉から中に入ったらしいんだ。それ以来山内さん、ゴミ溜めの扉に神経質になっているんだ」
「でも、先生は扉を開けておかなかったんですか」
「開けておかなかったのだよ。勿論、扉を開けてておけば、山内さんも中に人がいることに気がついたと思うんだが、扉を五センチぐらいしか開けておかなかったんだ。なんてったって、ゴミを漁る姿を誰にも見て欲しくないからね。それで、答案を探すのに夢中になっていて、扉が閉められたのに気がつかなかったのだ。ガチャンと音がした時には後の祭りさ」
「で、その晩は、ゴミ溜めの中で一夜明かしたのですか」
「そうだよ、懐中電灯が鈍くなってきて、臭いし、腹は減るし、心細かったが仕方がない。明日、生徒が登校したら大声をあげたり、傘でガンガン叩けば、一階のダストシュートの前にいる生徒が気がつくと思ったんだ。臭くて眠れなかったが、うとうとしたらしいんだ。朝になって目が覚めて、びっくりしたね。真っ暗で、一体俺はどこにいるのだと思ったよ。扉の隙間から差し込んできた光で時計を見ると八時だ。生徒が登校してくるころだ。それで、大声をあげたり、ガンガン扉を叩いたりしたんだ。しかし、反応がないんだ。耳を澄まして聞くと、ダストシュートの空洞から、生徒が騒いでいる声が伝わって聞こえてくるんだ。俺の声が聞こえているはずなのに、生徒の騒いでいる音の方が大きいんだよ」
「そうですか」
「うん、困ったのだが、よく考えれば、朝の黙想の時間とか一時間目が始まれば静かになるから、それまで待とうと思ったんだ。ところがショートホームルームの時間になってもまだ騒いでいるんだ。ちゃんと黙想しているのかと思ったよ」
「思い出しました。あの日、一Aの担任の森本先生が遅刻しまして、多分ショートホームルームが終わる頃に教室に入ったと思います」
「そうか、それじゃあ、一Aはショートホームルーム中ざわついていて、私の声が聞こえなかったのか。でも、一時間目になれば先生が来るし」
「それが、一Aは一時間目が体育でしたので、ショートホームルームが終わったら、生徒は廊下に出てロッカーを開けて体育服に着替え、体育館に行ってしまいますから。A組は空っぽですよ」
「そうか。でも、二Aのクラスなら私の声が聞こえるはずだが」
「実は、聞こえていたんです」
「えっ」
「はい、たまたまあの時間、私が二Aの自習監督に行ったのです。斉藤郁代がトイレの方で変な音がするというので見に行きますと、山田が大便のブースに閉じ込められてわんわん泣いているんです。私がドアのノブをガチャガチャやって、やっとドアが開いたんです」
「そうか、山田の泣き声でかき消されたのか。道理で何か泣き声がするなと思ったんだよ。しかし、泣き声が止んでからも、助けてくれーとか、ガンガンやったのに」
「済みません。わたしの手落ちでした。郁代がまだ変な音がすると言うので、もう一度トイレに行ったんです。実際、変な音がしてましたが、トイレの水槽に繋がっているパイプがブンブン唸っているんです。共鳴音と思い、デッキでパイプを叩いたら音が止まったので、郁代に、気にしなくていい、あれはパイプの音だと言ったのです。でも先生、その後二時間目とか三時間目の授業中にガンガンやれば、高一でも高二でもA組の生徒なら気がつくはずですが」 「そうなんだ。ところがだよ、そら、ここを見てくれ」
 鬼頭先生は頭を奥岡にさし出した。額に切り傷がある。
「ゴミ溜めで怪我したんですか」
「そうなんだ、二時間目の授業に賭けたんだが、二時間目が始まるとすぐにガーンと頭を鉄の棒で殴られたような痛みが走ったんだよ。気絶してしまったらしい」
「何か固いものが、先生の頭に落ちてきたんですね」
 奥岡は、松岡諒汰がノートパソコンが紛失したことで、安藤先生のところに来ていたことを思い出した。しかし、誰がパソコンをダストシュートに捨てたのだろう……。二時間目の授業が始まったから、誰も廊下に出ないはずだが……。待てよ、あの時、授業が始まったらすぐに湯川がトイレに行きたいと言って来た。そうだ。湯川は一時間目の放課に安藤先生のところに来ていた。あの時、ロッカーを検査するということを聞いて、二時間目が始まったら、自分のロッカーに隠しておいたパソコンを、トイレに行くふりをして、とっさにダストシュートに投げ捨てたんだ。急がないと安藤先生が来るし隠す所はないから。奥岡は湯川を呼んで調べなければならないと思った。
「多分そうだ。何が落ちてきたんだろう」
「ノートパソコンです。ダストシュートにほかった生徒がいたんです」
「パソコン? どうしてそんなものが落ちてきたんだろう」
「心当たりありますから、後で調べてみますが」
「パソコンを捨てるなんて。ひどい目にあったよ」
「それで先生、気絶してからどうなったんですか」
「おう、気がつくまで数時間だったのか、何日か経っていたのか、分からなくなってしまったんだ。兎に角、咽が乾くし、身体は衰弱するし、懐中電灯は切れてしまうし、叫んでも声にならないんだよ。扉をたたく力もなく、ただ壁にもたれているだけだったよ。情けない。泣けてきたよ。こんなゴミ溜めで俺は死ぬのかと思ったよ。きれい好きを自認している俺がだよ。運命の恐ろしさを感じたね。たった一枚の答案のために。カトリックの学校でこんなこと言っちゃまずいが、神様を怨んだよ。でも気を取り直してね、その内に山内さんが扉を開けてゴミを燃やすから、それまでなんとか体力を保持しなければと思ったんだ」 「でも、食べ物がなくて、よく体が持ちましたね」
「そうだよ。ここだけの話だがね、生徒が捨てたカップヌードルに残っているヌードルや汁をすすったよ。ジュースの缶も、ペットボトルも口をつけて飲んだよ。しゃぶる様にね。コンビニ弁当の飯粒や、おにぎりの残りなども食べたよ。汚いなんて言っておれないよ。生きるためだからね。生徒は放課後どんどん食糧をほかってくれたよ。よく腹を壊さなかった」
「大変でしたね」
「ところが、暗いし、身体が衰弱すると眠くなるのか、眠っては、はっと起き、また眠っては、はっと起きるんだ。ある夜だったが、夢の中でゴミ溜めの扉が開いて、小谷先生が現れて私を呼んでるんだ。それで、ここにいるよ、ここだよ、と言おうとしても声が出ないんだ。身体が麻痺してしまって動かない。あれは夢じゃなくて現実だったのだ。ガチャンと扉が閉まったのを覚えていたが、それからまた眠ってしてしまったらしい。気が付いたら、外に引きずり出されていたんだよ」
「もっと早く気がつけばよかったんですが」
「いやいや、先生は命の恩人だよ」
「そんな、大げさな」
 鬼頭先生は一呼吸おいて言った。
「ゴミ溜めに閉じ込められて、つくづく思ったんだがね、過ぎたるは及ばざるが如しって、私のことだ。几帳面過ぎたよ。物事を几帳面に、完璧にやる性分でね、わたしはそれがいいと思ってたんだ。ま、信条と言うか。柳沢が十一点と言ったなら、そのまま十一点でいいのに、馬鹿だなぁ、答案をこの目で確認しなければ気が済まない性分で、そのためこんな目にあってしまった。几帳面も考えものだよ」
 病院の帰り道、奥岡は几帳面過ぎるのも考えものだが、自分のようにだらしないのも問題だ、ホームレスと言う渾名は返上しなければならないと思った。

  十一月四日(火)

 夜の九時半頃、奥岡は職員室で専門書を片っ端から調べていた。職員室には誰もいない。謹慎中の湯川に質問されたのだが答が分からない。いらいらしていると電話が鳴った。                     
                                      (了)