2015年12月1日火曜日

シーラカンスに傘をさす


シーラカンスに傘をさす

 

 

私は北川高等学校三年生で、名前は東島進一といいます。私の家は代々医者で、父は私に医者になるよう望んでいますが、私は医者になるつもりはありません。

夏休みが明けたある日の夕食後、私は学校からもらった「進路志望調査票」に第一志望・東京芸術大学、第二・名古屋芸術大学と書いて父に見せました。父は呆れた顔をして、

「なんだこれ。お前、医者にならないのか」と言いました。

「ならないよ。デザインやろうと思うんだ」

「馬鹿言え。デザインなんかやって飯食ってけるのか」

「ああ、食ってけるよ。一流なら医者よりリッチだよ」

「人生そんな甘いもんじゃないぞ」

「僕には僕の生き方があるんだ」

「偉そうなこと言って。お前、何考えてるんだ。医者の道が開けてるというのに」

「お父さん、自分の跡を継がせたいために医者、医者って言ってるんだ」

「お前のためを思って言ってるんだ。大体、お前、デザインの才能あるのか」

「先生が、あるって言ってた」

「そんなのあてになるか」

「なるよ。日展で入賞してるんだ。僕は芸大に行くから」

「芸大なんか行ったら、授業料払ってやらないからな」

「ああ、いいよ。自分で払うから」

 昭和は遠くなりにけりなのに、親父は封建時代の化石みたいなことを言っている。今は、だいたい大学なんか行かなくったっていい世の中なんだぞ、親父はシーラカンスかアンモナイトか。

 

私は母が三十三歳の時に生まれました。結婚してから十年ぐらい子供ができなかったため、私が生まれたとき親はめっちゃ喜んだそうです。一番喜んだのは祖父で、阿波踊りみたいに両手を挙げて踊ったとか。祖父は、曽祖父が開業した町医者を継いで、戦争中は軍医としてニューギニアに従軍しました。よく生還したと思います。親父が医者になったのは、人に頭を下げるのが大嫌いで、会社員には向かないと思ったからだそうです。そんな訳で、三代続いた医者の家系に生まれた私は医者になるのが当然のように育てられました。

私は中二の頃から医者になることに反発しだしました。なぜ医者を継がなければならないのか。親父は馬鹿の一つ覚えみたいに、「家は代々医者だから」「医者の息子として恥ずかしくない行動をとれ」「東島の名前に瑕をつけるな」と言うのです。医者がどれほど大事だと言うのか。俺には俺の道があるのに、過干渉してウザイよ、俺を縛るなよ。俺は縄を引きちぎってやる、引きちぎって医者の呪縛から解放されるんだ。

 

私は親父と言い合った後、むしゃくしゃして家を飛び出しました。ケータイで遊び仲間に電話したけれど、電話に出ない。まあいいやと思って、地下鉄の杁中駅の方へ歩きました。

「杁中」は「いりなか」と読むのだれけど難しい地名です。祖父から聞いたのですが「杁」というのは、溜池から田圃に水を引く樋のことで、樋の中間にあったから「杁中」という地名になったとか。昔は一面に田圃だったのに、今ではマンション群や商店街です。

ま、そんな話はどうでもいいのですが、私は気がつくと杁中近くの三陽堂書店に入っていました。週刊誌を手に取ってペラペラめくっていくと、「集団万引き高校監督・その後」という記事に目が留まりました。万引き? もし俺がここで万引きしたらどうなるだろうと思いました。突如、化石親父の怒った顔が浮かびました。畜生、俺をなんだと思ってるんだ、親の言うとおりにしておれるか、何が「恥さらしなことをするな」だ、万引きだ、万引きしてやる、ざまぁみろだ。

どうせ万引きするならマンガがいいと思って、棚から一冊抜き取ると、心臓が高鳴りました。本を手に持ったまま出口に向かって歩きました。止めるなら今だ、防犯カメラが監視してるぞ、レジに行け、という気持ちと、いや、このまま店を出るんだ、捕まるために盗ったんじゃないかという気持ちが、頭の中で関ヶ原の戦いです。ええぃっ、と合戦を終わらせ、出口にずんずん歩いていって店を出ました。さあ、捕まえろっと開き直りました、と言えば格好いいけど、内心はドキドキです。本屋を出た途端、母の顔が浮かびました。しまった手遅れか、逃げろ、今走れば店員に追いつかれないと思いました。その時、後ろから肩を軽くたたかれました。

「あなた、万引きですよ。ちょっと店に来てください」

私は本屋の事務室に連れていかれて待っていると、店長らしき男が入ってきました。親父ぐらいの年恰好で、眼鏡をかけて顎髭を生やしている。ちなみに親父はちょび髭です。

「高校生だな。名前と家の電話番号は? 親に来てもらう」と高飛車です。

「えっ、親に?」私は狼狽したような演技をしました。

「未成年だろ。親に来てもらうのが当然だ」 

「あの、お金払いますから許してください」しおらしいことを言いました。

「お前、分ってるのか! 金を払えば済む問題じゃないだろ。さ、名前と電話番号を言え」

 私は下を向いて答えませんでした。答えても良かったのですが、威張った店長に反抗したのです。

「言わないのか。警察に突き出すぞ!」

「言います、言います、言えばいいんでしょ。名前は東島進一。電話は八三一のXXXXです」

「東島? 東島内科の?」

「はい」

「脅かすなよ。なんで医者の子が万引きするんだ。親が嘆くぞ。学校の先生だって」

「学校にも連絡するんですか」また驚いた振りです。

「当り前だ」

 

約十五分後、母が菓子箱を持って現れ、「済みません」「済みません」と言って何度も何度も店長に頭を下げ、私を引き取ってくれました。涙ぐんでいるのです。母に申し訳ないことをしたと思いましたが後の祭りです。家に帰るまで母は黙っていました。

家に帰ると親父がいきなり私を平手打ちしようとしましたが、私は身をかわしました。怒った親父はもう一度殴ろうとして手を挙げたとき、母が「止めて!」と叫びました。父は手を挙げたまま震えながら、

「お前をそんな風に育てた覚えはない!」と言うのです。

 急に反抗心に火がつきました。こんな風に育てたのは誰だ、お前じゃないか! 家名なんて糞食らえだ、と喉まで出かかりました。  

 

 五日後、処罰の言い渡しです。午前八時十分前に私と親父は北川高校に行きました。いつもは八時半ぎちぎちに登校するのに今日は早朝登校です。担任の後藤先生が待っていました。先生は「現代社会」担当で、五十六歳のベテラン教師です。先生に導かれて、私と父が校長室に入ると校長、教頭、生活指導部長、学年主任が着席していました。親父が先生方の対面に着席し、私はその隣に立たされました。

万引き行為の確認が終わると、校長が言いました。

「では、処罰の言い渡しをします。三年C組、東島進一、停学三日」

「ちょっと待ってください。停学は重すぎるのじゃないですか」と親父は食ってかかりました。

 一瞬、沈黙状態です。

「万引きの初犯は停学三日ということになってますので」指導部長が応えました。

「それは、おかしいですよ」

「おかしい?」

「そうでしょ、万引きしようとして万引きした者と、うっかり代金を払うのを忘れた者と同等に扱うのはどうかと思いますが」

「うっかりかどうかは分かりませんので、万引きは原則停学三日になっています」

「調べればわかりますよ」

「調べようがありません」

「いや、わたしはね、本屋に行って謝ってきたのですよ。その時、進一を捕まえた店員と話したんです。進一は本屋を出てからゆっくり歩いていたと言ってました。万引き犯なら、店を出た瞬間走って逃げるでしょう。ゆっくり歩いていたということは、うっかり払い忘れたということですよ」

「しかし、そういわれても会議で決まったことですし」

「そんな会議、もう一度開けばいいじゃ----

「お父さん、止めてよ。わざと盗ったんだから」

 親父は私の顔を見て「わざと?」と訊きました。

「ああ、盗む気で盗んだんだ」

「本当か」

「ホントだよ、だからもう……」

 父はうなだれて前に向き直ると、指導部長が思い出したように言いました。

「では、今の処罰でよろしゅうございますね」 

親父は黙って頭を下げました。親父が人に頭を下げるなんて初めてです。

それから、各先生方から説教がありました。どの先生も、お説ごもっともな話を長々として校長室を退出しました。校長室に残ったのは後藤先生、私、親父だけです。

先生はまず停学中の注意をしました。それから続けて言いました。

「お父さん、往々にして万引きする子はストレスがあるようですが、何かそのようなことはございませんか」

「はあ」父は力なく答えました。

「実は大学の進路のことで、私は医学部を受験させたいんですが、進一は芸術大学を受験したいと言ってるんです」

「そういえば、東島さんは医者の家系だそうで。お父さんのご希望も分かりますが、あまりご自分の意見を子供に押しつけると、子供はとんでもないことをしでかしますよ。数年前でしたか、高校生が祖父を殺したことご存知ですか」

「いえ」

「その生徒の祖父も父も東大出で、親戚もほとんど東大出だったんです。その生徒は東大に不合格で、慶応にしか受からなかったのです。東大に合格しなければならないというプレッシャーに負けて、祖父をバットで殴り殺したんですよ」

「ええっ」

 先生は、今度は私に向き直って言いました。

「進一、お前、本当に芸大に行きたいのか。単なる反抗心じゃないだろうね」

私は「いえ」と言いましたが、先生の一言が胸に突き刺さりました。

 

 言い渡しは八時二十分ごろ終わって、学校の正門を出ると、南山小学校の可愛い男子児童が三人こちらに向かって歩いて来ました。格好いい制服を着て、はしゃぎながら。ああ、無邪気な子達だ、それに比べて俺はひねくれてしまったなぁと思いました。私は親父と少し離れて歩きました。私の家は杁中から徒歩十分ぐらいのところにある滝川小学校の近くです。

 このまま栄にでも行きたいと思ったのですが、何しろ私は服役者です。親父は歩きながら何も言いません。私も言う言葉がありません。二人とも黙々と歩きました。親父は何を考えているんだ、先生の言葉を反芻しているのか、俺がバットを振り回している姿を想像しているのか……。きまり悪い時間が流れました。早く家に帰りたい、親父から離れて一人になりたいと思いました。

杁中の交差点が見えてきたとき、突然、父が言いました。

「進一、小学校の時にお父さんとボートに乗っている絵を描いたことがあったな」 

「うん、どうして?」

「いや、今思い出してね」

そう言って、再び父は黙って歩き続けました。なぜ、急に絵の話を持ち出したんだろう。あれは確か小学校一年生の春休みです。親父は杁中近くにある隼人池で私をボートに乗せてくれました。あの時の情景が浮かびます。池の周りのソメイヨシノが満開で春風に花吹雪が舞い、水面にひらひら散っています。親父は花吹雪を浴びながら、のんびり、のんびり、ボートを漕いでいます。きー、きーと櫓を漕ぐ音が聞こえます。青い空、ピンクの桜、グリーンのボート、鳥の鳴き声……。家に帰ってボートに乗っている絵を描きました。親父は「うまいね」とほめてくれました。あの頃は父はなんでもほめてくれました。平和な関係だったのです。どうしてこの年になると戦争状態に変わってしまうのでしょう。あの頃に戻りたい、親父も歩きながらそう思っていたのかも知れません。

 

 杁中の交差点に着いて信号待ちしていると白髪老人が近づいてきて父に訊きました。

「すみません、聖霊病院はどちらですか」     

「すぐそこです。そちらの方に行きますから、ついて来てください」

 老人は、私達と一緒に信号が変わるのを待っていましたが、突然倒れました。老人を見ると顔が引きつっていました。「胸が痛い……」と言っています。苦しそうです。

すぐに父はケータイで一一九に電話しました。

「緊急です。こちら昭和区の杁中交差点です。老人が倒れました。八十歳ぐらいの男性です。意識はあるようですが呼吸困難です。顔が引きつっていて、心筋梗塞かと思います。はい、わたしは東島と言います。こちらの番号は080-1553-XXXXです」

 親父はてきぱきと状況を説明して、老人のベルトを緩め、上着のボタンをはずしました。歩行者が集まって来ました。親父は老人に「もしもし!」と声をかけましたが返事がありません。呼吸をしていないようです。親父はすぐ心臓マッサージを始めました。老人に覆いかぶさるようになって、両手を重ねて胸に当て、強く押して、戻す、強く押して、戻すという動作を繰り返しました。二分…… 三分…… 四分…… 曇り空でそんなに暑くないのに額に汗がにじんできました。こんな真剣な親父の姿を見たことがありません。救急車がなかなか来ません。電話をしてから六、七分は経ちました。救急車が来るまでに親父の身体がへたばってしまいそうです。親父が言いました。「進一、いいか、お父さんと交代だ。よく見て覚えろ」私は「はい」と言って親父の動作を見つめました。「さ、交代」と言って親父が老人の身体から離れると、すぐ私も老人の身体に覆いかぶさる姿勢を取り、両手を重ねて胸を押しました。親父が言いました。「もっと強く。そう、離して。もっと強く、離して。体重を掌に乗せて、そう、もっと速く、その調子、イチ、ニ、イチ、ニ」私はマッサージを懸命に続けました。一分…… 二分…… 三分…… 救急車のサイレンが聞こえてきました。「進一、手を抜くな、そら、イチ、ニ、イチ、ニ」私も掛け声に合わせてイチ、ニ、イチ、ニと声をだしてマッサージを続けました。

 

 救急車が到着して、隊員がストレッチャーに老人を乗せ、救急車に運び込み、サイレンの音とともに消えていきました。

「進一、ご苦労さん」

「あの人、大丈夫だろうね」

「ああ、大丈夫だ」

 親父を見直しました。

しばらく二人とも無言で歩いていくと、親父が「お前、好きな道に進んでいいよ」と言いました。一瞬、耳を疑いました。あんなにカチンカチンの頑固親父が折れたのです。シーラカンスの殻が破れたのです。どうしたんだ、先生の一言が効いたのか、俺は親父をバットで殴らないのにと思いました。芸大に行っていいと言われても「じゃあ行くよ」とは言えません。私はぽつりと答えました。

「うん、考えてみる」

 雨が降ってきました。親父は鞄から傘を出して、私の方にかざしました。私は「持つよ」と言って傘を受け取り、親父の方に傘をかざして相合傘で歩いていきました。

                                                               終

                                    

 最初で最後の接吻


 

ナンシー・ブラウン 23 主婦

トーマス・ブラウン 30 炭坑夫 

ローザ       50 救貧院婦長

アグネス      47 救貧院職員

ジェーン      30 ナンシーの隣人

スリの少年

教区医師

 

 

○炭鉱労働者長屋・ブラウン宅・夜

   ST イギリス。一八三五年

   ナンシーとトムが夕食を食べている。部屋には薄暗いランプ。

トーマス「今日は命拾いしたよ、第4炭坑が爆発してね。二十一人が亡くなったよ。中には子供が五人いてね。恐ろしいことだ。明日は我が身かと思うとね」

ナンシー「そんな、縁起でもない事言わないで」

トーマス「いや、ひと事じゃないからな。万が一のために言っておくが、俺が死んだら、わかってるな、ロンドンの俺の妹を尋ねるんだぞ。パウエル街のブランローさんだ」

ナンシー「わかってるわよ。紙に書いてタンスにしまってあるから。もう、そんな話やめてよ」

トーマス「そうだな。で、どうだ、ベービーは? 動いているか」

ナンシー「ええ、腹をポンポン蹴って、とても元気いいの。きっと男の子よ」

トーマス「そうか、元気な子を産んでくれよ。身体大事にしろよ」

ナンシー「あなた、名前考えた?」

トーマス「ああ、オリバーってのはどうだ」

ナンシー「オリバー? いい名前ね」

トーマス「女の子の名前は、考え中だな」

ナンシー「男の子だから、考えなくていいわよ」

トーマス「女の子なら、その時考えようか」

ナンシー「ええ」

 

○長屋・ブラウン宅・玄関・朝

   トムがナンシーに話している

トーマス「そうそう、今日は、合同葬儀だった。炭坑、今日は休みだ。葬式終わったら昼には帰るよ」

ナンシー「じゃ、昼御飯は家ね」

トーマス「ああ」

 

○道路

   トーマスが歩いている。長屋が見えてくる。

暴走する馬車が走って来る。御者が馬を制しきれない。通行人を次つぎ跳ね飛ばして暴走している。

トーマスは馬車を避けるが、馬車はトーマスをはねて、走り去る。

トーマス、血だらけで道路に倒れる。瀕死の重傷。

人が集まる。

群衆の中に隣人のジェーンがいる。

ジェーン「まあ、トーマス!」

   ジェーン、ブラウン宅に走る。

 

○長屋・ブラウン宅・玄関

   ジェーンが玄関の戸を激しく叩く。

ジェーン「ナンシー、ナンシー!」

   ナンシー、玄関の戸を開ける。

ナンシー「ジェーン。どうしたの」

ジェーン「大変よ! ご主人、馬車にはね

られて」

ナンシー「ええっ?」

 

○道路

   ナンシーとジェーン道路を走る。人垣が見える。

  

○道路

   ナンシー、群衆をかき分けてトーマスのところへ。

ナンシー「あなた! あなた!」

トーマス「ナンシー」

ナンシー「あなた!」

トーマス「元気な……子を……産んでくれ……」

   トーマス、息を引き取る。

ナンシー、泣き崩れる。

 

○乗り合い馬車・停車場

   ナンシー、窓口で切符を買っている。浮浪者風の少年がナンシーを見ている

ナンシー「ロンドンまで一枚」

ナンシー、切符を受け取り、財布を懐にしまってカバンを持って歩き出す。少年がぶつかってくる。

ナンシー、倒れたまま起き上がれない。

少年、カバンを盗って逃げる。

ナンシー「誰か! 泥棒!」

周りに誰もいない。

停車場職員、窓口から出てきてナンシーを助け起こし、窓口に戻る。

ナンシー、起き上がってカバンがない事に気が付く。

懐に手を入れると財布もない。

呆然と立ち尽くす

 

○道路

ナンシー、身重の身体を手で抱えるようにして歩いている。

道路標識に「ロンドンまで七〇キロ」と書いてある

 

○農家の玄関先

   ナンシー、農夫に食べ物を恵んでもらっている。

農夫「さあ、これだけよ。早く立ち去ってよ」

 

○道路脇・夜

   ナンシー、枯れ草を集めて横になり、両手を腹に当てながら野宿

 

○畑・夜

   ナンシー、畑に入り、人参を抜き取り

   手で泥をぬぐい、かじりつく。涙が流れる。

 

○ロンドン市内の道路・夜

   ST ロンドン

   馬車や人が行き交う。

疲れ切ったナンシー。服はボロボロ、髪はぼさぼさで、ふらふらと歩いている。

雨が降ってくる。風が強くなる。

ナンシー、急に産気づき、うずくまる。あたりを見回す。

ガス灯に照らされた「教区救貧院」と書いた看板のある建物に気がつく。

起き上がって救貧院に向かう。

 

○救貧院・玄関・夜

   激しい風雨。

ナンシー、片手で腹を抱え、もう一方の手で玄関の扉を開けようとするが開かない。

脇の呼び鈴の紐に気がつき、三、四回引いて倒れる。

 

○救貧院の中の部屋

   婦長のローザと職員のアグネスがテーブルをはさんで座っている。二人とも繕い物をしている。

ローザ「雨がひどくなってきたねえ」

アグネス「ええ、こんな夜は、物騒だから玄関の扉、閉めておきました」

部屋の隅にある呼び鈴が鳴る

ローザ「なんだろうね、こんな夜中に」

アグネス「ええ」

ローザ「済まないけど、見てきておくれ」

アグネス「はい」

   アグネス、ランプに火を点けて、部屋を出る。

 

○救貧院・玄関・夜

   アグネスが玄関を開けてランプをかざす。

雨に打たれて、ナンシーが倒れている。

アグネス「まあ!」

   アグネス、ランプを置いて、ナンシーを抱き起こす。

ナンシー「赤ちゃん、赤ちゃんが……」

アグネス「ええっ?」

 

○救貧院・部屋

   アグネスと婦長、ナンシーをベッドに寝かせる。

ローザ「教区医さん、呼んできておくれ」

アグネス「はい」

   アグネス、部屋を飛び出す

 

○救貧院・部屋

   教区医が立ち合い、婦長とアグネスが見守る中ナンシー、出産する。

赤ん坊の泣き声。

婦長「よく頑張ったね、男の子だよ」

ナンシー「死ぬ前に赤ちゃん、抱きたい」

婦長「何言ってるの、死ぬなんて。しっかりおしよ」

   婦長、布にくるんだ赤ん坊をナンシーの枕元に置く。

ナンシー、赤ん坊の頬を手で撫でる。

医者(声を落として)「母親は身体が持たないかも……」

ローザ(小声で)「ええっ」

アグネス「……」

教区医(小声で)「瀕死の状態なのに、よく産んだ。奇跡だよ。残念ながら母親は……」

婦長ナンシーの側に行き、

婦長「お前さん、死んじゃだめだよ。この子、何て名前にするの」

ナンシー「オリバー…… オリバー」

婦長「オリバーね、分ったわ、で、あなたの身内は?」

ナンシー「ポケット、ポケットに」

婦長、壁にかけてあるナンシーの服のポケットの中を探す。

ナンシー、オリバーの頬に接吻して、

ナンシー「あなた……元気な……男の子よ」

   ナンシー、息を引き取る。
 
                        終