「一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
ご存知、尾崎紅葉の「金色夜叉」の見せ場です。間貫一の許婚であった鴫沢宮は結婚を間近にして、富豪の富山唯継のところへ嫁ぎます。これに激怒した貫一は熱海でお宮に恨み言を言うところです。
実は、この小説には酷似した種本があります。漣山神が著した「女より女々し」という小説です。荒筋を書きますのでよろしければ読んで下さい。
明治四(一八七二)年、主人公の大磯波男は美男子で二十四歳。街を歩けば、若い娘も年増のおばさんも波男をうっとり眺めます。
波男は大学卒業後、横浜毎日新聞社に入社しました。入社すると女性社員は、そわそわして仕事が手につきません。仕事そっちのけで波男を見ているのです。波男も自分の美貌にはいささか自負があり、容姿で寄ってくる女性には目もくれません。
ある日、横浜の郊外で火事がありました。波男が取材を終えて田舎道を歩いていると、消防ポンプ車が後ろから走ってきました。波男は道端に寄った途端、道からずり落ちて肥溜めに下半身がずぼっと落ち込んだのです。ポンプ車に乗っていた消防士は波男を見て大笑い。波男は怒れてきました。
――畜生! 道をよけてやったのに!
雨が降ってきて、ズボンについた糞尿はどうやらきれいに流れ落ちました。
社に帰ってきた波男を見て、女性社員は、いつものように、争って社員用の湯飲みに茶を入れて波男のところに持って行こうとしました。が、臭くて近づくことができません。鼻を掴んで自分の席に戻りました。
編集長も「大磯君、どうしたんだ。肥溜めにでも落ちたのか」と訊きました。波男は「はあ」と答えました。社員がくすくす笑っています。
誰もお茶を持って来ないので、波男は自分でお茶を淹れようと思っていますと、都子という社員がお茶を持ってきました。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
波男は都子を見ました。こんな美人が社にいたのか。いつも女性に囲まれていたので、誰が誰だか分かりませんでした。都子は臭いのを全く意に介せず、お茶を持ってきたのです。これぞ外見にとらわれない本物の女性です。波男は都子が気に入りました。都子も波男のことを好いていました。
波男は都子の虜になり、恋文を書きました。都子も恋文を書いてキスマークをつけました。二人は熱烈な相思相愛の仲になりました。
そして、波男が都子に求婚します。都子は「わたしのような不束者でよろしければ」と言って、求婚を受け入れます。
ところが、あと一週間で挙式という時になって、都子は波男を袖にしました。
「波男さん、ご免なさい……。わたし、博文堂の社長にプロポーズされたの」
都子は迷った挙句、愛より社会的プレステージを選んだのです。社長は五十六歳。出版界の大物で、貴族院議員で、三段腹で、禿げ頭です。波男は怒り狂いました。
「畜生! お前はそういう女だったのか」
悔し涙がこみ上げてきました。涙がこぼれないように夜空を見上げると満月です。
「都子、あの月を見よ。来年の今月今夜、あの月を俺の悔し涙で曇らせてみせる。今日という日を忘れるな。十二月四日だ。来年の十二月四日、必ず月を曇らせてみせる。俺の悔しさがいかに深いか、俺がいかに傷ついたか。その証として、必ず月を曇らせてみせる。十二月四日を忘れるな」
さて、一年経って早や「十二月四日」の夜となりました。月が雲に覆われています。
そら見ろ! 俺が言った通りだ。都子、分かったか。俺の嘆きが。俺の恨みが。俺の悔しさが!
波男はふと、そばにあった新聞を取り上げました。日付を見ると、一月二日となっています。
「一月二日?」
波男は年号を見ました。明治六年となっています。はて、明治五年のはずなのに……。
狐につままれたようになって新聞をめくると、「昨日、明治五年十二月三日は明治六年一月一日に暦が変更になりました。混乱しないように留意して下さい」と書いてある。
明治政府は昨日、旧暦を新暦に替えたのでした。
了