小春 十五歳 山椒太夫の娘
安寿(垣衣) 十五歳 岩城正氏の娘
厨子王(萱草) 十三歳 岩城正氏の息子
二郎 三十五歳 山椒太夫の次男
三郎 三十一歳 山椒太夫の三男
奴頭 四十五歳
弥助 五十歳 牢番
小萩 三十三歳 山椒太夫の奴婢
刑の執行人 四十歳
○山椒太夫の屋敷・
山椒太夫、二郎、三郎、小春、昼食を摂っている。
山椒太夫「今度の代物は二人とも頑固で名前も言わないとか」
二郎「それで、こちらで名前をつけました。姉を垣衣、弟を萱草と」
三郎「父上、垣衣は小春によく似ていますよ」
山椒太夫「そうか。明日にでもその垣衣とやらの顔を見てみようか。ところで、小春、お前、確か、十五だったな」
小春「はい、長月で十五になりました」
山椒「そうか、早いものだ。十五なら嫁に行ってもいい頃だ」
小春「いえ、わたしは、もっと父上のそばにいて、親孝行をしとうございます」
山椒太夫「それは、なかなか殊勝な」
小春「ありがとうございます。でも、まだまだ親孝行が足らないと思っております」
山椒太夫「泣かせることを言うじゃないか。二郎も三郎も小春を見習え」
○山の中腹
大童の出で立ちをした安寿と、厨子王が柴を刈っている。
厨子王「姉さんは、最近、変わりましたね。無口になったし、何か考え事をしているような」
安寿「厨子王や、わたしは疲れてしまった。少し休まないかえ」
厨子王「ええ」
安寿「どうせ、休むのなら、もう少し登って、景色のいいところで休みましょう」
安寿は先に登り出す。厨子王が後から付いて登っていく。
安寿が立ち止まる。そこからの眺望は
良く、麓の川が遠くまでよく見える。
安寿「ここらでいいでしょう。厨子王や、今まで黙っていたけれど、今から姉さんの言うことをしっかり聞きなさい」
厨子王「改まって、どうしたのですか」
安寿「大事な話があるのです。もう柴は刈らなくていいから、よくお聞きなさい。お前は今から逃げておくれ。逃げて筑紫のお父様に会い、佐渡のお母様をお迎えに行っておくれ。伊勢の小萩さんから聞いたのだけど、ここの地形は小萩さんが言ってた通りで、小萩さんによるとね……」
(回想)
安寿と小萩が汐汲をしている。
小萩「それで、そこまで登ると、眼下に眺望が開けて、麓の川がよく見えるのさ。で、川沿いに下っていくと、国分寺があるんだよ。山から寺の五重の塔が見えるから、目印にするといいよ。寺に着いたら、伊勢の小萩と言っとくれ。住職はわたしの姻戚だから、きっと力になってくれるはず」
安寿「ありがとうございます」
小萩「でも、見つかると殺されるから、重々気を付けなさいよ」
安寿「ええ、それは勿論」
(回想おわり)
安寿「そら、あそこに川が見えるでしょ。川伝いに下っていくと、川の右手に寺の塔が見えますね、あの寺の住職は小萩さんの姻戚だそうです。うまく、あの寺まで逃げおおせれば、住職がかくまってくれるはず。寺から都に近いのだよ」
厨子王「でも、お姉さまは一緒に逃げないのですか」
安寿「二人一緒だと目立つし、私はなんとか生き延びるから、私のことは心配しなくてもいいのですよ」
厨子王「でも」
安寿「あそこにいたら二人とも家畜のようにこき使われて、殺されてしまいます。だから、お前だけでも逃げるのよ。姉さんだけでなく、お父様やお母様の願いと思って勇気を出して逃げておくれ。この通りだよ」
安寿、手を合わせ厨子王を拝む。
厨子王「そこまで姉さんが言うのなら、分かりました。別れるのは辛いけれど、うまく逃げてみせます。きっと、きっと迎えに来ますから、待ってて下さい」
安寿「聞き分けのいい子だね、さ、この守り本尊を持って行きなさい。困ったことがあったら、観音様が助けてくれますから」
厨子王「はい、では」
安寿「道中気をつけるんだよ」
厨子王「お姉さんも」
○山椒太夫の屋敷・日暮れ
奴頭が山椒太夫に報告をしている。
奴頭「垣衣を牢にぶち込んでおきました」
山椒太夫「おう、ご苦労。明日になったら、見せしめの棒叩きだ。死ぬまで叩いてやれ。弟を逃がすなんて、ひでえ尼だ」
奴頭「承知しました。で、お頭、垣衣はこんなものを持ってました」
奴頭は書き物を山椒太夫に渡す。
山椒太夫「何だ」
と言って読み出す。途中から表情がひきつるが、奴頭は気がつかない。
山椒太夫「これは預かっておく。ご苦労だった」
奴頭、去る。
山椒太夫、書き付けを見ながら、
山椒太夫(独白)「なんということだ、垣衣が大恩ある主君、岩城正氏殿の娘御とは……。おい、誰かいるか。小春を呼んでくれ」
小春、部屋に入る。
小春「何か御用ですか」
山椒太夫「うむ、小春、先ほどお前は、親孝行がしたいと言っておったな」
小春「はい」
山椒太夫「わしの一生の願いを聞いてくれぬか」
小春「はい、父上の願いならばどのようなことでも」
山椒太夫「では、はっきり言うが、お前の命をくれぬか」
小春「ええっ」
山椒太夫「驚くのは無理もないが、奴婢の垣衣のことを知っているだろう。実は、垣衣の実の名は安寿といって、大恩ある岩城正氏殿の娘御であることがこの書き付で分かった。岩城様は、今、筑紫に流されているが流されるまで、わしが仕えていた主君なのだ。今こうして不自由なく暮らせるのも岩城様のおかげじゃ。安寿様が今日山で弟君を逃がしたのじゃよ。それで、罰として明日棒叩きの刑があるのじゃ。深い恩のある岩城様の娘御を棒叩きに処するわけにはいかない。そこで」
小春「分かりました。私が代わりに刑を受けましょう。お父様に親孝行ができて、こんな嬉しいことはありません」
山椒太夫「うむ、よく言ってくれた」
○牢屋・入口
山椒太夫と小春が牢に近づく。小春は
影に隠れている。
山椒太夫「ご苦労、ご苦労、今日は娘の誕生日で家中の者、皆が祝っておる。弥助も今日は、牢番は免除してやろう。日頃のねぎらいに祝い酒を持ってきた。下がって存分に飲んでくれ」
弥助「へい、旦那様、これはありがたいことで。では、甘えまして。へい、鍵はここに」
弥助が立ち去ると山椒太夫は小春を呼
び、錠を開けて安寿の牢に入る。
安寿「これは太夫様、何事ですか」
山椒太夫「安寿様、今までの失礼の段、お許しくだされ。驚くのも無理はないですが、実は、わたしはあなた様の父君、岩城正氏殿の家臣でした。岩城殿には大恩がある身なのです。今日はその御恩をお返しに来ました」
安寿「父が岩城と、また、私の名前を、どうして?」
山椒太夫「この書き付けを見て」
安寿「先ほど、奴頭に取られた」
山椒太夫「そうです。この書き付を読んで分かりました。これはお返しします。で、安寿様、明日、棒叩きの刑がありますが」
安寿「もとより覚悟の上」
山椒太夫、小春を近くに呼ぶ。
山椒太夫「こちらは私の娘、小春にございます。小春があなたの身代わりになりますので、ここから逃げて下さい」
安寿「それでは、娘さんが……」
小春「覚悟はできております。さあ、急いで」
山椒太夫は小春の髪を切り、安寿と小春の着物と履物を取り替える。小春を残し、牢の外に出て鍵をかける。
山椒太夫「さ、私のあとについて来て下さい。逃げ道は……」
○山椒太夫屋敷・中庭
山椒太夫、二郎、三郎が正面にの段上に座る中、小春が連れてこら
れ、処刑台に縛られる。周りで奴婢が二十名ほど見物している。
山椒太夫の合図で棒叩きが始まる。叩かれている内に、小春は悲鳴をあげなくなり、ぐったりする。執行人が鼻に手をかざし、
執行人「死にやした」
山椒太夫「ご苦労……。どれ、どんな死に顔をしてるか」
山椒太夫、段を下りて小春の死体を見る。
山椒太夫「やい、今一度物を言うてみよ。目を開けてみよ。わしの、わしの声が聞こえるか」
おわり