2012年7月22日日曜日

怒ったバイオリニスト

 新幹線が名古屋駅に到着すると、五藤征嗣はバイオリンケースを持ってプラットホームに降りた。

五藤は十八歳のときチャイコフスキー国際コンクールで優勝し、ジュリアード音楽院で修士課程を修了。ニューヨーク、ロンドン、パリを始め世界中で演奏していた。

ホームに降りると、報道陣に囲まれるのを避けるため顔を伏せて歩いた。肩までかかる髪が顔を覆い、歩く度に揺れている。五藤に気がつく者は誰もいなかった。

名古屋での演奏を翌日に控え、その日は、中学時代にバイオリンの指導をしてくれた中部芸術大学の神岡教授を尋ねるところであった。「俺も四十だから、先生は定年に近いだろうなぁ」と思った。

地下鉄に乗った。東京ならすぐ誰かが五藤に気がつくのだが、伏見駅を過ぎ、栄駅を通過しても誰も気がつかなかった。

五藤はイラついてきた。心の奥底では、誰かに気がついて欲しいと思っていた。演奏後に拍手喝采を浴びることは嬉しかったが、周りの人が「見て、見て、ほら、あの人、バイオリンの五藤さんじゃない?」とうわさされるのもまんざらではなかった。

十分後、今池駅を通過したが、誰も気がつかない。携帯電話をいじったり、本を読んだり、眠ったりしている。

「名古屋は田舎だ。ここに世界的に有名なバイオリニストがいるというのに」と五藤は思った。

星が丘駅で下車して、中部芸術大学に続くなだらかな坂道を登って行った。桜が散り始め、花びらが舞っている。前方から五、六人の学生が歩いてきた。その内の二人はバイオリンケースをかかえている。

「あの連中、俺の顔を見て驚くだろう」と心の中でニヤリとしながら、ゆっくり歩いた。すれ違うとき、バイオリンケースを持った女学生の目を見た。女学生も五藤の顔を見た。

女学生は「変なオヤジ、変態かしら」と思い、五藤は「あれでもバイオリンを専攻している学生か」と思った。

五藤は大学構内に入り、研究棟に向かった。暫らく歩くと音楽ホールが見えてきた。渡米前、五藤はここで喝采を浴びたのであった。その時の歓声や拍手が聞こえてくるようだった。

ホールの正面に「浅田みどり ヴァイオリンソロコンサート」と書かれた看板が立てかけてあった。

「浅田なら教え子だ。確かジュリアード音楽院で指導したことある」と五藤は思いだし、演奏を聞いてみようと思った。ホールに入り、プログラムを見ると、二十分後の二時開演であった。

 五藤は前の方の座席に座ろうと思い、中央通路を歩いていった。学生達が自分を見て驚きの声をあげる事は覚悟していた。しかし、誰も五藤に気がつかないようだった。大声で話したり、プログラムを丸めて手をたたいたり、友達を呼んだりている。

 五藤は前から三列目に座った。「俺様がここにいるというのに、何だ、この様は。みんな節穴か」と怒れてきた。

「こうなったら、びっくりさせてやろう」と邪念が働き、五藤は舞台中央にある階段を登り、緞帳の前に立った。全員が一斉に驚きの声をあげると思っていたが、場内は相変わらず騒然としていた。

「誰も気がつかないとは、何たる侮辱!」五藤の唇がゆがんだ。

「いや、こんなことで怒っていては、名バイオリニストの名に恥じる」と考え直し、深呼吸をして、「ここはひとつ、バイオリンを弾こう。すぐ静かになるだろう」と思った。

 五藤はおもむろに「カルメン幻想曲」を弾き始めた。

十秒…。二十秒…。静かにならない。一分後、断念した。

 五藤は舞台を降り、通路を大股で歩いてホールを出た。笑い声が背中から浴びせられるように感じた。

「なんと言うアホどもだ。学部長は何を教えとるんだ。叱りつけなければ」と思って、音楽学部に向かった。

 学部長室の前に立った。ドアが半開きになっており、中から悲痛な声が聞こえてきた。

「本当か! 五藤先生が亡くなったって? あの五藤征嗣先生が? 間違いじゃないのか」

「いえ、今、テレビで見たんです。ほんとです。写真がテレビに出てました」

「どうして、どうして亡くなられたんだ」

「はあ、あの、新幹線の座席で亡くなっていたそうです。心筋梗塞とか」 

                            おわり

反少年


 星斗が五歳の時、家の近くの神社で五六人の子供とチャンバラごっこをしていた。鞍馬天狗のつもりか、星斗は風呂敷の頭巾をかぶっている。陽一が切り下ろしてきた刀を星斗はエイと打ち払い、一歩後退して刀を上段に構え「お主、なかなかやるな」と芝居がかった口調で言った。頭巾が頭からずれかかっている。星斗は刀を右手で振りかぶったまま、左手で頭巾を直そうとした。すかさず光雄が後ろから星斗の背中を袈裟切りにした。星斗は「うーむ、卑怯者…め…」と、わざと苦しそうに言って仰向けに倒れた。 

銀杏の葉が夕日を浴びて橙色にひらひら輝いている。昭和二十一年の秋であった。

陽一の母親が「ご飯だよ」と呼びに来ると、陽一は木の枝の刀を捨てて「じゃあ、またあした」と言って帰って

行った。光雄の母親も呼びに来た。ほかの子たちも「僕も帰る」「僕も」と言って去って行き、境内が急に静かになった。

星斗一人になると、風呂敷を頭から外して半ズボンのポケットに突っ込み、寂しさを紛らわすかのように、手に持った木の枝を右に左にエイッ、エイッと、空気をはすかいに切りながら境内を歩いていった。

二羽のカラスが甲高い鳴き声を出して夕日に向かって飛び去っていく。

星斗の母親は、星斗が二歳の時にクモ膜下出血で亡くなっていた。四歳の時、父親の順次は再婚し、高子という新しい母親が来た。鷲鼻で唇が座布団のように太かった。高子は星斗の母親の持ち物を全部処分した。タンス、鏡台、着物、帯、履物、鼈甲のかんざし、それから写真も手帳も。そのため、星斗は母親がどんな顔をしていたのか、どのような文字を書いていたのか知るすべがなかった。

 家への帰り道、星斗はいつものように西参道の鳥居のトンネルをくぐっていた。朱塗りの鳥居が三十本ほど五十センチ間隔で立っている。星斗は木の枝を鳥居の柱一本ずつ当てて、カタ、カタ、カタ、カタと音を立てながら歩いた。

急に風がでてきた。空が黒雲に覆われ、雨が降りそうになってきた。先ほどまでの夕焼け空が嘘のようだった。星斗は急いだ。あと五六本で鳥居のトンネルから出るところまで来たが、木の根に足をとられ転んだ。「痛ったぁ」と言って、尻餅をついたまま膝をさすった。膝小僧が泥で汚れ、かすかに血がにじんでいる。泥を払い、傷に唾をつけた。泥と唾と血が混ざりあった。立ち上がる時、ふと右手の鳥居の柱を見ると「望月満生」と寄進者の名前が墨で太く書いてある。星斗は自分と同じ名字だと思った。

次の瞬間、ババーン! と雷が耳をつんざき、同時に稲妻が光った。三十本の鳥居が真っ白に輝いた。バリバリ、 轟音が天地を引き裂く。星斗はしゃがんで目をつむり、耳を手で覆った。風が境内を渦巻き、無数の銀杏の葉が黒い空に舞い上がっていく。雷が容赦なく鳴り響き、稲妻が光り、銀杏も本殿も玉砂利も青白く光った。星斗はじっとしていた。

十秒……二十秒……

雷鳴と稲妻が次第におさまってきた。星斗はしゃがんだまま目を開けて周りを見た。霧が立ち込めている。霧を通して正面を見ると、鳥居のトンネルの柱が前方に三十本ぐらい続いている。

あれ? 雷が落ちる前、確かあと五六本でトンネルから出るところだったのに、風で後ろに吹き飛ばされたのだろうか、と思って立ち上がりながら、すぐ脇の鳥居を見た。柱に「望月満生」と書いてある。雷が落ちる前にいたところだ。どうして目の前にまだ三十本も鳥居が立っているのか、と不思議に思いながらもう一度目を凝らして正面を見た。

消えかかった霧の中に五歳ぐらいの少年が、星斗から三メートルぐらい離れて、トンネルの中に立っている。星斗と同じように坊主頭で、青いセーターを着ている。茶色の半ズボンも同じだ。膝小僧に血がにじんでいる。すぐ右下に木の枝が転がっている。自分と全く同じだ。

鳥居のトンネルの中に巨大な鏡があるはずがない、と思いながら、星斗は右手をあげてみた。少年も向かって右手をあげる。星斗は驚いた。体を右に傾けると相手も向かって右に傾いた。神社の狐のいたずらかと思いながら、二回ジャンプした。少年も同時にジャンプし、同時に着地した。星斗は三歩ゆっくり前進した。相手も三歩前進してきた。

このまま前進したら、ぶつかると思った。「僕は鞍馬天狗だ。怖いものはない」と自分に言い聞かせ、さらに前進した。少年との距離が五十センチぐらいに近づいた。少年に触ろうとして右手を出した。少年も同じように手を出した。手と手が近づいて、あと五センチぐらいになった時、また稲妻が真っ黒な空をジグザグに走り、雷が神社に落ちた。星斗は目をつむり、立ったまま全身が硬直した。なんども雷鳴が天地を揺るがし、霧がたちこめてきた。

十秒……二十秒……

雷鳴が次第に弱まり、霧が消えていった。星斗は目を開けた。目の前にいた少年が消えていた。

神社の屋根が、まるで何事もなかったかのように夕日を浴びて輝き、銀杏の葉がひらひらと橙色に染まって揺れている。どこかの寺の鐘が聞こえてきた。

星斗は家に帰りたくなかった。高子は順次と結婚すると、一年後に弟を出産した。弟が生まれてから、星斗は高子が変わったように感じた。

家に帰ると、高子がガラガラの安っぽい声で言った。「いつまで遊んでいるの。日が沈んだら、帰って来なさいって、いつも言ってるでしょ」

夕食の時、星斗は神社で見た少年の話をした。

「父ちゃん、神社でね、変なもん見たんだ」

「変なもんって?」

「うん、あのね、僕に双子の兄弟っているの?」

「双子? 何言ってるんだ。いないよ」

「でも、神社で僕そっくりな子を見たんだよ」

「また馬鹿なこと言って、この子は」高子が口を挟んだ。

「でも、ほんとに見たんだよ。僕と同じ服着てたよ」

「なんかの見間違いだ」順次も全然取り合わなかった。以前のお父さんだったら、もっと話を聞いてくれたのにと星斗は唇をかんだ。

その後、星斗の前に少年は二度と現れなかった。小学校に入ってからも星斗は神社で陽一や光男達と遊んだ。遊び終わって皆が帰ると、鳥居をくぐって「望月満生」と書いてある鳥居で立ち止まった。また少年に会えるかもしれないと思ったからだ。しかし、少年は現れなかった。

 小学一年生の時、陽一に尋ねた。

「陽ちゃん、あのな、自分と同じ姿をした男の子を見たことない?」

「何それ? 双子のことか?」

「いや双子じゃなくって。自分とそっくりな子だよ」

「そっくりって、どういうこと? お化け?」

陽一は馬鹿にしたような口調で聞き返した。

「お化けじゃないよ。僕は見たんだ。僕そっくりの子を」

「そんなのいる訳がないじゃないか」

「うん、でも……」

  光雄にも同じことを聞いたが、「夢見たんじゃない?」と言われた。それ以来、人から変なことを言う子だと思われたくなくて、誰にも聞かなかった

小学校を卒業して地元の中学に通った。中学校へも神社の脇道をとおって通った。星斗は時々思い出したように鳥居のトンネルをくぐった。あの少年は一体何だったのだろう。幻だったのだろうか。幻が自分と同じように手をあげたり、ジャンプしたりするのだろうかと思った。

中学校の授業はつまらなかった。成績の悪い星斗の事を高子はいつもなじり、「星斗は頭が悪いね。少しは(ひで)(くん)を見習ったら」と弟の秀樹を褒めた。本当の母親だったら子供を馬鹿にするようなことを言うのだろうかと悔しく思った。「お母さん」とかすかに言っても、母の思い出も、面影も、感触も何も浮かばなかった。せめて一枚でもお母さんの写真があればと思った。

 高校に入ってからも成績は芳しくなかった。物理の時間だった。先生は、アインシュタインのように髪が四方八方に伸び放題で、丸い眼鏡をかけ、白い実験用コートを着ていた。あだ名は「ポンポン狸」からできたポンタだった。星斗はポンタの授業はインチキ臭いと思っていた。難しい質問をされると生徒を煙に巻き、如何にももっともらしく答えているように思えた。どこからどこまでが科学的根拠があるのか分からなかった。万有引力で男女は引かれあうとか、近いうちに老人でもエレベーターで宇宙に行けるようになるとか、未来へのタイムトラベルなら理論上可能であるとか、とっぴな話をして生徒の関心を引こうとする。この前もバーミューダ・トライアングルゾーンは異次元世界への出入り口で、バーミューダの地球の反対側にも同じような出入口があるはずだと言った。星斗はポンタの言う事を信用していなかったが、面白半分に反対側とはどのあたりかと、地球儀を回して調べたところ、どうも日本で、それも中部地方らしかった。

その日も星斗は早く授業が終わらないかなと思いながらぼんやりポンタの話を聞いていた。ポンタは「反粒子、反粒子」とわめいている。

「…というわけで、物質は全て電子、陽子、中性子からできていると言えます。ところが、これらの粒子に対して全く反対の電荷を持ち、同じ質量を持った粒子が存在するのです。それらを反電子、反陽子、反中性子と言います。先ほどから言っている反原子と言うのは、要するに反電子、反陽子、反中性子でできている物質のことです。さて、ここまでで何か質問はないかな」

「先生、質問」星斗の隣に座っている湯川が手をあげた。

「はい、湯川」

「えっと、反原子が存在するなら、反分子が存在するという事ですか」

「そう。その通り。もっと言えば、反蛋白質、反アメーバだって、そう、突きつめて言えば反人間だってあり得るんだよ」

 反人間と聞いて、星斗は飛びあがるぐらいびっくりして思わず手をあげた。

「はい、星斗」

「先生、反人間って、どういうもんですか」

「うーん、まあ、言ってみれば全く人間とは正反対の人間だね。反人間は左右が人間とは逆になるはずだ。時間の流れも逆になっている。ああ、これに関して面白い理論があるんだ。ついでに言っておくと、宇宙の起源のビッグバンの時に、マイナスの力が働いて、この宇宙と全く逆の反宇宙ができているという説があるんだ。そこでは時間の流れがこの宇宙と逆になっている。この宇宙は膨張しているが、反宇宙では収縮しているという訳だ」

星斗は何が何だか、分からなくなった。また化かされそうな気になったが「反人間」と聞いた時、神社で見た少年の事を思い出していた。星斗は質問を続けた。

「先生、反宇宙があるなら、反地球があるわけですか。そこには、俺、いや、僕と反対の人間が存在しているという事ですか」

「理論上はそういうことになるね。全く君と同じ人間がいるということだよ」

 星斗は先生の話にのめり込んだ。他の生徒も今まで一度も質問した事のない星斗が熱心に質問するのを見て驚いた。

「先生、僕は、僕の反人間と会う事ができますか」

「それは無理だ。この宇宙と反宇宙は全く違った次元に存在するから、遭遇するという事はあり得ないね。もっとも最近の理論では、トラップホールが異次元を結び付ける役割をしているという学者もいるがね。そら、あのバーミューダにある異次元への出入り口だよ」

 星斗は五歳の時に遭遇した少年の姿を今くっきりと思い出した。

「先生、実は、あの……、僕は、僕の反人間に会ったことあります」

 一瞬、白けた空気が教室に流れた。次の瞬間、大爆笑に変わった。

ポンタの目が光った。

「ええっ、ほんとか。いつ、どこでだ」

高座(たかくら)神社です。確か五歳ぐらいでした」

 次の日曜日、星斗はポンタを神社に連れて行った。熱田神宮の近くにある子育て神社だ。境内を歩きながらポンタは言った。

「そうか。思った通りだ。この辺にトラップホールがあるのか。雷が鳴ったろう」

「はい、ものすごい雷でした」

「そうだろう。自然条件がそろい、君の反少年、いわばマイナス星斗が雷で強力なプラスの電荷を帯びて君の前に現われたのだ」

「でも、先生、反宇宙って、何億、何兆光年も遠いところにあるんでしょう」

「いや、そうでもないんだよ。この宇宙と反宇宙との距離は、最も遠いところが最も近いんだよ」

 星斗は煙に巻かれそうになって、

「えっ、どういう事ですか」

「うむ、例えて言うと、リボンで輪を作る時に、リボンが一回ねじられていると、リボン上のある一点から一番遠いところは、リボンをたどって行くとリボンのすぐ裏の点になるんだよ。だから、リボンに穴を開ければすぐ裏の点にいける訳だ。その穴と言うのが、トラップホールだ。この神社に穴ができたんだよ」

 話を聞きながら、星斗は神社の狐に、いや狸に化かされているような気になったが、反面、ポンタは本当のことを言っているのではないかとも思った。大体バーミューダ・トライアングルの地球の反対側にトラップホールがあるはずだとポンタは言っていたが、すばり、俺はこの神社で現に反自分に会っているのだ。

ポンタは「望月満生」と書かれた鳥居のところに来ると、カバンから地磁波測定器を取り出し、スイッチを入れた。

「うーむ、凄い。磁波が異常に高い」

「ここにトラップホールがあるということですか」

「うむ、断定はできないが、トラップホールが出来るならこういうところだ。条件が合えばここから異次元の世界に行けるかもしれない」

「条件って?」

「いろいろあるよ。太陽のフレアが爆発し磁気嵐で地球の電気体系が破壊されるとか、強力な落雷で正電荷と負電荷が逆転するとか、惑星が一直線に並び重力磁場が異常をきたすとかね」

星斗はポンタがすらすら条件を言うのを聞いて、先生がでたらめを言っているのではないと思った。

「じゃぁ、うまくいけば、ここから反宇宙に行けるわけですか」

「そうだ。反粒子と電荷の研究を突き進めれば、その可能性は大いにあるよ。君、一つ勉強してみないかね」

それ以来、星斗はポンタの授業を真面目に聞くようになった。学校の図書館で『科学朝日』をはじめ、原子や宇宙に関する本を読むようにもなった。大学進学をあきらめていたが猛烈に勉強し、一浪後、京都大学理学部に入学した。四年後、大学院理学研究科に進み、素粒子論研究室において反粒子の研究に没頭した。博士課程修了後、マサチューセッツ工科大学物理学客員研究員として地磁気と宇宙電気体系の研究を続けた。

 三十一歳で見合い結婚をし、四十二歳で京都大学助教授、五十三歳で教授となり、さらに研究を重ねた。京都大学を定年退官後も、名古屋大学で名誉教授として研究と実験を重ねたが、具体的な成果が出せないままさらに、十年、二十年と時は流れた。その間、順次は六十七歳で心臓病で亡くなり、その十年後、高子も七十七歳で他界した。

二〇一三年五月、七十八歳の星斗は欧州素粒子研究機構の研究員としてジュネーブに飛び、大型ハドロン衝突型加速器による異次元の存在を確かめる実験や神の粒子と言われるヒッグス粒子の検出実験に携わった。

八十歳の時、妻が亡くなり、東京のマンションに住んでいる長男から一緒に住まないかと誘われたが、生まれ故郷の名古屋から移住することは考えていなかった。何といっても高座神社で反少年、いや今では反老人になっている自分に会うことだけを考えていた。しかし、星斗老人は半ばあきらめていた。物質・時空学、粒子物理学、宇宙物理学、惑星電磁気学、大気電気学等に精通してもまだ反水分子さえ検出することはできていなかった。

八十二歳の誕生日を一人で迎えたが、まだ子供の世話にならなければならないほど、身体は弱っていなかった。朝食をすませると、いつものように高座神社に参拝がてら散歩に出かけた。もう反自分に会う事はかなわないと思っていた。帰り道に境内を横切って鳥居のトンネルの方に歩きながら考えた。この六十年間、何故そんなに反自分に会いたいと思って研究に没頭してきたのだろう……。反自分に会いたいのではなく、母親に会いたかったからだと気がついた。ポンタ先生は、反宇宙では時間が逆に流れていると言った。だから、反自分に会えば、反自分がどんどん若返っていき、ついには母に会えると思ったからではなかったか……。

 まだ五歳のころ、神社で遊んでいる時、陽一や光雄の母親が「ご飯だよ」と呼びに来るのを見て羨ましく思った。小学校の入学式だって、みんな母親に手を引かれて嬉しそうな顔をしていたのに、自分だけ高子と言う知らないおばさんに手を引かれ、「さっさと歩きなさい」と小言を言われていた。道を歩いても公園に行っても、小さな子のそばには母親がいた。そういう情景を見る度に星斗は心が痛んだ。小学校の先生が、嘘をつくと心の中に黒い点ができると言ったが、星斗は母親がいない寂しさを感ずるたびに、心の中に青い斑点ができるように感じた。

青い斑点が星斗の心の中で飽和状態になると顔に寂しさが表れた。いくら笑っていようと、いくら快活に振る舞っていようと、目元が寂しく見えた。高子は、父親がいる時には星斗を可愛がるそぶりを見せたが、陰では秀樹ばかり可愛がっていた。「星斗には内緒だよ」と言って秀樹に菓子や小遣いを与えているところを見たことがあった。中学生になっても、高校生になっても、自分をふんわり抱きしめてくれるという母親が恋しかった。一人前の成人になっても、結婚しても、四十歳になっても、いくら年をとっても、寂しさは心の底では変わらなかった。星斗の顔をよく見ると、目元に寂しさのため出来たのか、かすかに青い痣があり、顔の表情にどことなく寂しさが漂っていた。鏡を見れば寂しさが鏡に映っていた。



 その日は五月晴れであった。星斗老人は高座神社の本殿の前で賽銭を投げ、手を二回叩いて拝んでから、境内を横切って鳥居のトンネルの方に歩いて行った。若葉がキラキラ輝いている。鳥居のトンネルに入り、中を歩きながら、あの時会った反少年も今では八十二歳になったのだなと思った。

 一陣の風が出てきた。十数羽の鳥が騒々しく鳴いて樹々から四方に飛び立ち、黒雲が空を覆ってきた。星斗老人は、雨になると思って急いでトンネルをくぐり抜けようとした。年のせいで足が思うように動かなかったが、やっと「望月満生」と書いてある鳥居まで来た。突然、バリバリと天地を引き裂く雷が鳴り、霧が立ち込めた。星斗はしゃがんで目をつむり、耳を手で押さえた。

 十秒……二十秒……

 雷がおさまると、星斗は目を開けた。見ると霧が消えていき、黒雲が次第に青空に変わり、散らばっていた十数羽の鳥が四方から戻ってきて樹々の中に入ると、騒々しく鳴いて、吹いていた一陣の風が止まり、星斗が鳥居のトンネルの中を、足をもたつかせながら後退していき、五月晴れの新緑がキラキラ輝いている中、星斗は本殿の前に立ち、手を合わせて拝んでから手を二回叩くと、賽銭箱から賽銭が飛び出して星斗の手に戻った。

なぜ賽銭が飛び出すのか。それに今拝んだばかりなのに、なぜまた拝んでいるのだと思った。そのとき、時間が逆流しているのだ、反宇宙に入ったのだ、と気がついた。星斗は、臨死体験者が体外遊離して自分自身を見ているように反星斗を見ていた。

 まるでビデオテープを巻き戻しているかのように、場面が元へ元へと戻っていき、年齢が一年、また一年と若返り、八十歳に戻り、妻の葬儀の風景が現れ、霊柩車から柩が六人の喪服を着た男達に運び出され、斎場の中央に戻され、棺の蓋が開けられて、菊の花が棺から喪服の人達によって取り出されている。

 それから十年、さらにまた十年と時が後退し、定年退官後に実験をしている自分自身の姿になり、京都大学退官記念講演「反素粒子対称性のバランス」について講義をしている自分にもどり、五十三歳の教授昇格につづき、四十二歳の助教授就任、さらに戻って三十一歳の見合いの席で、こぼれた紅茶を星斗がナプキンであわてて拭いていると、こぼれた紅茶がテーブルから浮き上がり、倒れかかったカップの中に戻り、カップから星斗が紅茶を飲んでいる。

 さらに時は戻り、ポンタの授業風景になり、大爆笑があって、星斗が「すまりあがとこたっあにんげんにんはのくぼ、はくぼ」と言っており、授業が逆流し、湯川が「んもつし、いせんせ」と言いながら上げている手を降ろし、ポンタが「かいなはんもつし」と言っている。

 とうとう、五歳の時の鳥居の情景になった。バリバリっと雷が鳴ると、星斗と同じ服を着て同じズボンをはいている少年と向き合い、二人とも伸ばした手を引っ込めて、お互いに三歩後退して二回ジャンプした。

 さらに景色が変わり、タカ、タカ、タカ、タカと木の枝で鳥居の柱をたたきながら鳥居のトンネルを後退していくと、「たしあたま、あゃじ」と言う陽一の声が聞こえ、次に星斗がチャンバラごっこをしている風景に変わった。ずり落ちていた頭巾が元に戻っている。

 二歳ぐらいの情景になった。星斗の両脇に父と母が座っている。夢にまで見た母だ。浮世絵美人のような切れ目と細い眉毛、整った鼻、ふくよかな頬。にっこり笑っている。ああ、あれが母の顔だ。星斗老人の目がうるんだ。母の顔をじっと見つめた。嬉しいような、気恥ずかしいような、甘えたいような、しがみつきたいような気持ちになった。母の声が聞こえた。「てけあをちくお、いは」。星斗は大きく開けていた口を閉じかかると、口の中から子供用のスプーンを母がゆっくり引き出していて、スプーンの上にご飯がのっている。ああ、あれが母の声だ。なんだか懐かしい。あのようにしてご飯を食べさせてもらっていたのだ。

 食事の風景が終わり、一歳になり、おむつを替えてもらっており、母の乳首に口を吸いつけ、ごくんごくんご、と乳を吸い戻している赤ん坊になり、出産の場面になり「あーゃぎお」と言う声が聞こえた。 

 その瞬間、星斗老人は息を引き取った。すぐそばに「望月満生」と書かれた鳥居が立っていた。星斗の顔から寂しさが消えていた。目元にあった寂し涙の青い痣がきれいに消えていた。うれしそうな、子供のような、満足しきった、穏やかな、安心しきった顔だった。