2011年10月23日日曜日

心臓移植をした男

 ジム・アンダーソンは病室からストレッチャーで手術室に搬送されるとき、廊下の天井を見上げながら「これがこの世の見納めかも知れない」という不安で身体中が強張っていた。付き添っている妻のケイトは青白い唇を一文字に結んで寄り添っている。手術室が近づいて来た。ケイトは「大丈夫よ、大丈夫だから」と念を押すように言ったが、夫に対してではなく、自分自身に言い聞かせていた。娘のエステラはまだ顔を見せていない。
アンダーソンは四十九歳の九月に特発性心筋症で倒れ、オレゴン健康科学大学病院に入院したが、心不全が改善されず、心臓移植以外では助からないと診断されていた。倒れてから十ヶ月後、二〇〇九年七月七日、丁度五十歳の誕生日に心臓のドナーが現れた。アンダーソンはドナーからのバースデープレゼントだと思った。

 手術は無事に済み、その後の経過も順調で三ヶ月後に退院することが出来た。入院するまで教鞭をとっていたポートランド市ウエストバレー・ハイスクールの理事会の寛大な措置により、翌年の六月に復職することが出来た。
 アンダーソンはワシントン大学理学部出身で生物学、特に鳥類の研究を専門としている。趣味はバードウオッチング。学校の長期休暇にはオーストラリア、スコットランド、スイス、マレーシア、コロンビア等、世界各地で野鳥観察を楽しんできた。
 手術後二年経過した七月、かねてからの念願であった日本に、バードウオッチングのためにやって来た。
十六日、新潟空港から新潟駅までリムジンバスに乗り、電車に乗り替え、妙高山の麓にある妙高高原駅に向かった。標高二千四百五十四メートルの妙高山には二百種以上の鳥が生息しており、新潟県は日本でも有数のバードウオッチング地域である。アンダーソンはヤマガラ、コマドリ、セグロセキレイ、ノジコ、クロジ等、日本特産の野鳥を観察したいと思っていた。
 妙高高原駅で電車を降りると、新潟大学生物学教授の野沢隼人が改札口で待っていた。野沢もバードウオッチングに興味があり、アンダーソンは鳥の種類が世界一と言われているコロンビアで四年前に野沢に会っていた。共に鳥類の研究が専門ということと同い年であることから親しくなり、それ以来二人は野鳥に関する情報を交換し合っていた。今回アンダーソンが日本に来たのは野沢の強い勧めがあったからである。
野沢は妙高市生まれで、妙高山は何度も登っており自分の庭のようによく知っていた。また、四十七歳のときオーストラリア国立大学に一年間客員教授として招聘されていた。
 二人は「妙高高原スカイケーブル」麓駅の近くにある赤倉観光ホテルに宿泊した。
翌朝、青空が広がっていた。天気予報は「日中は晴れ、夕方から曇」であった。午前八時、ホテルを出発してスカイケーブルの麓駅でゴンドラに乗った。遥か遠くに紺色の志賀高原の山々が朝靄の中に浮かんでいる。
頂上駅に着くと空気がひんやりして森の匂いがした。遠くに野尻湖が見え、湖が光っていた。
二人は景色を楽しんだ後、登山口から妙高山頂上を目指して登り始めた。始めは両側にブナの木が並ぶ平坦な道であったが、三十分も歩くと凸凹した石畳に変わった。ここからが本格的な登山道となる。道の所々にチングルマ、ハクサンチドリ、ヒナザクラ、ミヤマリンドウなどの可愛い花が咲いており二人の心を和ませた。登山口を出発して一時間後、大谷ヒュッテが見えてきた。
「ジム、聞こえますか。あれがコマドリです」野沢が言った。
 アンダーソンは足を止め耳を澄ますと、辺りがしんと静まり、コマドリの鳴き声が聞こえてきた。
 ピヨカラカラカラ ピンカララララ
 始めて聞く鳴き声だった。アンダーソンは鳴き声の方を見つめた。
 いた! 
 枯れ木に止まっている。
 双眼鏡のピントリングを回してコマドリに焦点を合わせた。グレーの羽毛の胸、赤褐色の翼と尾羽、オレンジ色の頭巾をかぶったような頭と首。時々首を左に右に動かし、黒い嘴を空に向けて開け、喉の羽毛を震わせて囀っている。
 ヒンカラカララララ
 ハイビジョンムービーで撮影した。一分ぐらい撮ったところで飛び去って行った。
「うまく撮れました」と言って、アンダーソンは子供のように喜び、早速フィールドノートに記載した。
 妙高山中腹、九時五十分、コマドリ。十三~十五センチ。囀りがよく響く。
 二人は野鳥を観察しながら頂上まで登り、午後三時半にはスカイケーブル頂上駅に戻る予定であった。
 十一時ごろ天狗堂に着いて祠の前で休憩した。新鮮な空気と森の緑が気持ち良い。オオシジキ、カッコウ、ルリビタキの鳴き声が山にこだましている。
天狗堂から約二時間登り、午後十二時半ごろ山頂に到着した。遥か遠方の雲海の上に一段と際立って黒姫山や火打山が青く浮かんでいる。
 頂上で昼食を摂り景色を満喫して下山した。途中に鎖場(くさりば)があり、岩が急勾配になっている。野沢が先に、アンダーソンが後から鎖を掴んで岩を一歩一歩降りていった。無事に下りて山道を下っていくと崖道になった。一歩足を滑らすと左側の崖から転がり落ちるようなところだ。
 慎重に歩いて行くと突然右手の斜面の岩肌が崩れ、岩石が転がってきて野沢を直撃し、野沢は倒れた。起き上がれない。両手で右足の脛を痛そうに抱え、ウンウンうなっている。足を骨折したらしい。額から血が流れ、ズボンの脛から血が滲んでいる。野沢がズボンをまくり上げると、脛から血が流れていた。
「大丈夫ですか」
「うん、足を折ったらしい。血を止めなくては」
 アンダーソンは気が動転した。バードウオッチングで数カ国訪れたことがあるが案内者が大怪我をすることはなかった。
野沢は横になったままリュックサックから手ぬぐいを出し、端を歯にくわえて手で引き裂き、二本の細長い布を作った。二本の端と端を固く結び合わせ、五六回ねじると一本の長い布紐になった。
「これで止血します。何か小枝を捜して下さい」
野沢は落ち着いていた。
 アンダーソンは言われるまま、小枝を探して野沢に渡した。野沢は小枝を半分に折って近くに置き、紐を太ももに二重に巻きつけ、端と端を軽く結んで結び目に小枝を通し、ネジのようにキリキリと巻き上げて太ももを絞った。血は止まった。額の傷もバンドエイドで止血した。
 野沢は立ち上がることが出来なかった。杖をついて下りるのも無理だ。アンダーソンがおんぶして下山することも出来ない。救援を求めるしか方法がなかった。
「急いで助けを呼んできますから」
と言ってアンダーソンが立ち上がったとき、また地滑りと落石があり、目の前の下り道が完全にふさがれてしまった。
「これは困った」と野沢が言った。「迂回するしかありません。地図を書きますから、アンダーソンさん、地図に従って下山して下さい」
 野沢はリュックサックからボールペンと小さなノートを取り出して説明しながら地図を描き出した。
「先ほど下りてきた鎖場に戻って、もう一度登って下さい。登ると、幅一メートルぐらいの坂道があります。坂道を十分ぐらい登っていくと道が二つに分かれます。左側の道を選んでください。ここから急な下り坂になります。三十分ぐらい下りていくと胸まで届くぐらいの熊笹の密生しているところに出ます」
 野沢は坂道を示す線を引き、熊笹の所は点々を一杯描いて「笹」と書いた。
「ここは笹で道が覆われて分かりにくいですが、平坦な道です。笹の葉の間に人間が一人通れるぐらいの幅の道がありますからそれに沿って歩いて下さい。もし分からなければ前方の低木の中に大きな赤松の木がありますから、目印にして進んで下さい。赤松まで十分もあれば着きます。ここまでくればあとは簡単です。すぐ右側の道を十五分ぐらい下っていくと道が左右に分かれています。左はダメです。途中で道がなくなります。右の道を行けばあとは一本道の下り坂です。そのまま道を下っていけば休憩した天狗堂に出ます」
 野沢は地図にX印を書いて「赤松」と記入し、X印から二又の線を描き、一方の線を伸ばして、先端に「天狗」と書いた。
「天狗堂からは今朝登ってきた道です。二十分ぐらい下っていけば大谷ヒュッテが見えます。太谷ヒュッテには夏場だけ電話が引かれています。そこから警察に電話して下さい。番号は一一〇番です。英語で言っても対応してくれます」
 野沢は地図の描いてあるページを破ってアンダーソンに渡した。
 アンダーソンは地図を二つに折って尻ポケットに入れ、
「では、急いで戻って来ますから、待っていて下さい」
と言って立ち上がった。
 アンダーソンは、まず鎖場まで行き、鎖を掴んで登った。半分近く登った時、雲行きが怪しくなり、風が下から吹き上げてきた。周りは誰もいない。鳥は鳴きやんでいる。心細くなってきた。聞こえるのは風の音だけだ。鎖場を上ると、野沢が言っていたように坂道があり、十分ぐらい登っていくと道が分かれていた。地図を取り出して確認した。
 左だ……
 下りていくと、空がみるみる真っ黒な雲に覆われ、大粒の雨が降ってきた。風も強い。
アンダーソンはリュックサックからカッパを取り出して、頭からすっぽりかぶった。
暫らく下って行くと雨が一段と激しくなりカッパにバチバチと容赦なく雨が打ちつけた。雷も鳴りだした。雨宿りするようなところはない。野沢の事を思って必死に茂みの道を急いだ。道が雨で滑り易くなっている。
 あっ!
 横転した。転ぶときにカッパが木の枝に引っかかって、カッパの右肩から裾までビリッと大きく破れた。裂け目から雨が入り、カッパは用をなさなくなった。それでも頭だけは覆っていたのでそのままかぶって進んだ。
その後二回転倒して泥水に尻餅をついた。二回目は尾てい骨を打って、しばらく起き上がれなかった。それでも起き上がって、岩道を下っていくと破れたカッパの端がヒラヒラまとわりつき煩わしくなった。雨が横殴りになり、頭から足の先までぐしょ濡れになった。カッパが邪魔になり、脱ぎ捨てた。まだ二時過ぎだというのに夕方のように暗く、風がますます吹き荒れている。
 背の高い笹が密集しているところに来た。風雨で笹の葉がざわめき、うねり、雷鳴が轟き、稲妻に熊笹が一瞬照らされると、熊笹は荒れ狂う無数の青蛇のように不気味に光った。薄暗くて道がはっきりしない。
 前方に大きな赤松の木があるはずだ……
 霞んで赤松が見えない。密生している熊笹の茂みの中に入る前に立ち止まった。
 稲妻が光った。低い木立の中に大きな赤松が雨の中にくっきりと照らし出された。
 あれだ! 
 ぐしょ濡れになりながら、赤松を目指して熊笹の中を歩いた。笹が胸や首筋にぺたぺた当たり、絡みつき、行く手を邪魔した。赤松を見失わないようにしながら笹を手でかき分け、かき分け、泳ぐようにして進んだ。靴には笹道の溝に溜まった水が入り、歩くたびにグッチャ、グッチャ音を出した。
 あっ! 
 また転んだ。笹道の水溜まりに横転した。横倒しのまま痛みが消えるのを待った。痛みが治まると「よいしょっ」と、手をついて立ち上がった。手も足もズボンも泥だらけだ。赤松まであと十メートルぐらいに近づいていた。
 もう少しだ…… 
 赤松にようやくたどり着いた。道が左右に分かれている。野沢の言う通りだった。
 右に行けばいいのだ…… いや、左だ……
 アンダーソンは尻ポケットに手を突っ込んだ。指でポケットをまさぐると地図が内側の生地にぴったりくっついており、水を吸収してふやけているようだった。破けないようにそっと引き出そうとしたが、ぼとっとちぎれて三分の一ぐらいしか出てこなかった。それを左手に移し、もう一度手を突っ込んだが、残りは、ポケットの底に固まってくっついているようで、紙の手応えがなかった。それでも端らしいところをまさぐり、つまんで引き出した。また、ぼてっとちぎれてしまった。三回目にようやく全部引き出した。雨の打ちつける中、水でふやけきった三つの紙の塊を開こうとしたが、豆腐のようにボテボテで、タラタラに崩れ、三つとも全部開けたが、ジグゾーパズルのように、どの部分が、どの部分にくっつくのか分からなくなっていた。紙には線が引かれているのだが汚れ、滲み、判読できない。アンダーソンは判読を諦め、野沢がどちらと言ったか思い出そうとした。
 確か左と言った……
 アンダーソンは左の道に入り込んだ。身体が冷えてきた。寒い。雷雨と山風が荒れ狂っている。いくら歩いても、天狗堂に着かない。
 右の道だったのか……
 来た道を引き返したが、頭が朦朧として赤松の木が一面に生えており、目の前をぐるぐる回っている。どれが目印の赤松か見分けがつかない。呆然と立ち尽くした。
 どちらに行けばいいのだ……
 辺りを見回した。
 あっ、あそこに熊笹が密集している……
 頭が混乱し、疲れと焦りで何が何だか分からなくなってきた。救助どころではない。自分の身体が持つか持たないかだと思った。道なき道を足を引きずり、身体中が雨でずくずくになり、体力は極限に達し、同じ道をぐるぐる回っているように感じた。
 どうしたらいいのだ……
 その場にしゃがみこんだ。
 暫らくじっとしゃがんでいると、雨が小ぶりになってきた。雷も遠くに消えていった。ふと見上げると妙高山の山頂が立ち昇る霧の中にぼんやり霞んで見える。
「山で道に迷ったら、下山せず、頂上を目指せ」と言う言葉を思い出した。
早くしないと日が暮れてしまう…… 野沢さんが待っている……
最後の力を振り絞って立ち上がった。山頂への道はなかったが、ただがむしゃらに残雪のある不安定なガレ場を四つん這いになって登った。掌から血が流れ、ズボンの膝が擦り切れ、膝の血がズボンに滲み、息も絶え絶えに登っていった。まだ頂上まで相当の距離がある。再び朦朧としてその場に倒れた。
見上げると原生林が密生している。
 もうだめだ…… 野沢さん…… 申しわけない……
 ケイトの顔が浮かんだ。エステラの笑顔も浮かんだ。家族一緒にヨセミテ国立公園に行ったことを思い出した。エステラが七歳だった。ブライダルベール滝が音もなく落ちている。
 どこかでカッコウが鳴いている。
 風が止んだ。
 静かだ。
 太陽の光が木々の間から差しこんできた。
 倒れたまま視線を移すと、原生林の茂みに切れ目があった。あの切れ目のところへ行けば頂上が見えるかも知れないと思い、ふらふらと身を起こし、切れ目のところまで四つん這いでたどり着いた。地面に腰をおろして切れ目から景色を見た。霧が消え、遠くまでよく見えた。妙高山の頂上も、眼下の丘や峠も見える。
 ほっと一息ついた。
 頭髪から水滴が頬を伝って幾筋も流れ、手で拭った。
 暫らく景色をぼんやり眺めていると、右手下方に見覚えのある峠が見えた。
 あっ、あれは観音峠だ……
 観音峠から天狗堂までは一本道だ。妙高のてっぺんがあっちで、観音峠があそこなら、ここは女狐平(めぎつねだいら)だ。だとすると、この辺にひょろ長い一本杉があるはずだ。おっと、あるある。じゃあ、あとは簡単、簡単…… 野沢さん待ってて下さいよ……
 アンダーソンは急に元気を取り戻し、二十歳の若者のように観音峠に向かって早足で山道を下って行った。ほどなく観音峠の頂につき、母子観音の形をした高さ八十センチの岩石の前に座って手を合わせた。
 アンダーソンは自分が自分でないように感じながら、観音峠から天狗堂に向かった。頭の中で何かのスイッチが入ったようだった。坂を下って行くと、二十分後、天狗堂に到着した。祠の前で「野沢さん、すぐ助けに行きますから」と言った。
 アンダーソンは休憩せずにさらに二十分ほど下って行くと大谷ヒュッテが見えてきた。午後三時だった。濡れた青色の屋根が太陽の光を反射している。扉を開けると、公衆電話があり、一一〇番に電話をした。
「ハロー、こちら妙高山、大谷ヒュッテです。友達が骨折で下山できません。救助をお願いしたいのですが」
 
 一週間後。
 ポートランドに帰ったアンダーソンは、妙高山で九死に一生を得た理由を考えていた。なぜあの時「あれは観音峠だ」と分かったのだろう。あの時、もう一人の自分が指図しているように感じたが、あれは一体何だったのだろう。
 もう一人の自分……
 と考えて、心臓移植だと思った。ドナーが妙高山のことを知っており、移植のときドナーの記憶も移植されたのではないかと思った。
 しかし、なぜドナーが日本の妙高山の事を詳しく知っているのだ……
 新たな疑問が湧いてきた。
 ドナーの事を知りたいと思ったが、移植医から、ドナーはシアトルで交通事故で死亡した若者だ、とだけ知らされていた。ドナーの経歴や住所はレシピエントに伝えないことになっている。
翌日、新聞を読もうとして、はっと気がついた。
 シアトルで発行されている新聞で交通事故の記事を読めば分かるかも知れない……
 ポートランド中央図書館に問い合わせると、「シアトル・タイムズ紙」のみマイクロフィルムで保管しているとのことだった。早速図書館に行き、二〇〇九年七月分のマイクロフィルムを借り、プロジェクターでフィルムを送り、七月八日のローカルニュースを拡大して驚いた。ど真ん中に「オートバイ事故で男性死亡」という記事が映った。心臓移植をした翌日の新聞である。記事には次のように書いてあった。
「シアトル発=ジョージ・ヤマモト(二十五歳、イースト・ウエストミンスター街三十四)が乗っていたオートバイがオーチャッド・アヴェニューで転倒し、セイント・フランシス病院に搬送されたが、午後五時死亡した」
アンダーソンンは同日の午後六時に心臓移植手術を受けていた。ヘリコプターで心臓が輸送されれば四十分で病院に着く。ドナーはジョージ・ヤマモトだと確信した。
 ジョージの親に手紙を書くことを躊躇したが、二日後、思い切って書くことにした。突然手紙を書く失礼を詫びた後、息子さんに感謝していること、妙高山での不思議な出来事を書いた。
 十日後手紙が来た。ジョージ・ヤマモトは日系二世で信州大学農学部に四年間留学していた。在学中は山岳部に属しており、三年生の時はキャップテンで妙高山の登山ガイドをしていた。手紙の最後に以下のように書いてあった。
「息子の心臓がどこのどなたに移植されたか気になっておりました。今回、息子があなた様のお役に立ちました事を嬉しく思います。お手紙の行間から息子の呼吸が聞こえてくるようです。息子に会う事はかないませんが、せめて息子の鼓動だけでも感じたいと思います。お差支えなければ、是非会いに来て下さいませんか」
 三日後、アンダーソンはシアトルに向かった。
                 完

忽然と消えた名古屋城

名古屋城の金鯱が夢を見ていた。戦災で焼け落ちた一代目の金鯱が夢に現われたのである。
「金平(きんぺい)、よーく聞け。わしは一代目の金鯱だ。今日はお前に頼みがあってこうして現れたのだ。頼みというのは他でもない、わしの無念を晴らして欲しいのじゃ。知っての通り、金鯱の役目はお城を火災から守ることだ。わしは残念ながら役目を果たせなかった。それというのも、忘れもしない昭和二十年五月十四日の朝のことだ。わしの鎮火術を知らない阿呆どもが米軍の空襲に備えて、わしも女房も毛布でぐるぐる巻きにして紐でがんじがらめにして天守閣から地面に下ろしてしてしまったんだ。焼夷弾が落ちてきて天守閣に火がついた時、わしは火を消さなくてはと思ったが、がんじがらめで鎮火術の使いようがなかったのだ。だから、お城は焼け落ちてしまったのじゃ。実に無念。それ以来、わしはお城や市民の皆さんに申し訳ないことをしたと思っておるのじゃ」
 一代目は目を閉じて沈黙した。それから大きく見開いて、金平の目を見つめた。
「そこでじゃ、金平。わしの頼みを聞いてくれ。お前は天守閣にただ鎮座しているだけではいけない。お城を火災から守るのは勿論、名古屋のため尽力して欲しいのじゃ。わかったか。しかと頼んだぞ」
 金平が「承知しました。お任せ下さい」と言うと、一代目は「では、さらばじゃ」と言って夢から消えて行った。
 翌朝、金平は女房の金(かね)美(み)に夢の話をしたところ、金美も同じ夢を見ていた。
「でも、このお城、鉄筋コンクリートだから燃えないわよ」金美が言った
「しかし展示してある障壁画、天井板絵、掛軸などを守るのは我々の務めだよ」金平が言った。
「そんなことなら、わたしだけで充分よ。あなたは名古屋のために尽して下さいな」
「分かった」と言って、金平は飛び立とうとしたが、その前に名古屋城に挨拶しておこうと思った。
「城(たち)さん、城さん」
「ああ、金平君、話は全部聞いた。身共も昨夜の夢で、先代から名古屋のために尽くしてくれと頼まれたよ。身共の事は心配せずともよい。火災警報機や自動消火器がびっしり付いているし、金美姐さんもいるから鬼に金棒さ。しっかりやって来てくれたまえ」
「それじゃぁ」と言って金平は四つの鰓をバタバタさせ尾鰭で舵を取りながら東の空に飛んで行った。
読者諸兄は鯱が空を飛ぶ訳がないとお思いでしょうが、鯱の祖先は印度の摩褐魚(まから)で、鯨と鰐と龍を足した怪物なのです。ガンガスの女神の乗り物で、無限に水が飲め、無限に水を吐き出すことができ、水、陸、空、自由自在でした。

      *       

 地球から海王星まで四十三億五千万キロ離れている。ボイジャー二号探査機が海王星に到着するまでに十二年かかった。海王星の外周に約七万個の泥と氷の塊がドーナツ状の帯となって太陽系を囲んでいる。この帯をカイパーベルト、別名「彗星の巣」と言う。
一九三九年九月九日、カイパーベルト内の小天体が他の小天体に衝突してベルトから暗黒の宇宙に飛び出した。この小天体は直径約十キロ。遥か彼方の太陽に向かって時速三千三百キロで突進し始めた。
海王星、天王星、土星の各軌道を通過し、二〇一一年九月十一日、木星の軌道に接近した。木星は地球から六億三千万キロ離れている。ここまで接近すると太陽の光に照らされて、暗黒の小天体は突如青白く光だした。表面の氷が蒸発し長い尾をたなびかせたのだ。新たな彗星の誕生である。この彗星の名前を「X彗星」と呼ぶことにしよう。X彗星はさらに速度をあげて太陽に接近していった。

      *
        
 金平が東の空に飛んでいくと東山公園の遊園地から女の子の泣き声が聞こえてきた。なぜ泣いているのかと思い、遊園地まで飛んで行って下を見た。女の子がメリーゴーラウンドの前で「乗りたい、乗りたい」と言って泣いている。
 メリーゴーラウンドの入口に「故障のため乗れません」と貼り紙がしてあった。母親が「今日はだめなの。乗れないの」と言い聞かせているのだが、女の子は「乗りたい」と言って泣き叫ぶばかり。
 金平は「ここぞ出番だ」と思って降下して女の子の前に着地した。女の子は驚いて泣き止み、身体をこわばらせて金平を見つめた。
「お嬢ちゃん、木馬の代わりに、わたしに乗りませんか」
金平は優しく言って尾鰭を女の子の前に平らに下ろし、女の子が乗れるようにしてやった。女の子は「怖いよー」と泣き出して母親の後ろにしがみついた。母親が言った。
「何よ! あんた金鯱じゃないの。こんなところで何やってるのよ。この子、泣いてるじゃない。あっちへ行ってよ。シッ、シッ!」
 金平はなぜ追い払われたのか分からず退散するしかないと思って空に舞い上がった。
今度は南の方に飛んで行った。新瑞橋交差点の上空に来た時、言い争いが聞こえてきた。
「てめー、どこ見とんや、阿呆が。信号が見えんのか。赤で突っ込んできやがって」サングラスをかけた男が言った。
「あんたこそ、どこ見とるの。青だったじゃないの。あんた、どうしてくれるのよ。ちゃんと弁償してよ」金髪女がキンキン声で言った。
 周りに人だかりが出来てきた。ベンツ同士の衝突だ。
「おう、姉ちゃん。おめえ、どこの組のもんや」
「あんたこそ、どこの馬の骨やねん」
 金平は「今だ」と思い、二人の前に着地した。
「喧嘩はつまらないから止めましょう」
「な、何だ、この怪物! びっくりするじゃねーか」男が言った。
「鯱鉾さん、あんた、なに気取ってるのよ。あんたの出る幕じゃないわよ」女が言った。
「そうだ、引っこんでろ」男は金平をにらんだ。
警官が群衆をかき分けてきて、
「金鯱さん、こんなところで何してるんですか。わたしが後は引き受けますから、お城に戻って下さい」
金平は力なく名古屋城に向かって飛びたった。飛びながら、なぜ自分は人のために役立つことができないのか理解できなかった。

      *       

 X彗星は火星の軌道を通過すると、さらにスピードを上げ、時速十二万キロ、尾の長さ千五百万キロになった。太陽熱で表面が蒸発したため、核(本体)の直径が五キロに減少していた。このまま進めば七十九日後、太陽に衝突することになる。太陽に一億五千万キロ接近したとき、地球の軌道と交わり、偶然か必然か、丁度そこへ地球が運行してきた。X彗星は地球の引力に引かれて軌道を変え、地球に接近しだした。
二〇一二年十二月十一日午前十一時、米国アリゾナ州のレモン山天文台に勤めているジョン・ケネデスキーが偶然X彗星を発見した。彼はマサチューセッツ州ケンブリッジの小惑星センターへ報告した。報告を受けた同センター長のアイザック・ワインシュタインはケネデスキーの観測データをもとにしてX彗星の軌道を計算し、結果に驚愕した。

     *

 金平は天守閣に戻ると、金美に失敗談を話した。
「……ということで。こちらの善意が全然伝わらないんだ」
「あなた、もしかして善意の押し売りとかしてないの」金実が言った。
それを聞いていた城も言った。
「差し出がましいかもしれないが、金平君は能力以上のことをしたんだよ。人間世界のいざこざを解決するのは至難の業だ。先代が名古屋のために尽くせと言われたのは、名古屋を天災や火災から守れという意味だよ。なんてったって、火事を消してもらって邪魔者扱いにする人間はいないからね」
 金平は、なるほどと思った。
 翌、十二月十一日午後三時頃、金平が中村区の中村公園近くを飛んでいたところ、三階建のビルから煙がのぼり、瞬く間にビル全体が火に包まれた。消防車が遠くからサイレンを鳴らし近づいてきた。金平は「出番だ」と思い、ビルの真上から「水よ出よ」と言って口を開くと水が怒涛の如く出て、十秒で鎮火した。野次馬は空を見上げて、あっけに取られた。
「今、火を消したのは、ありゃ金鯱じゃないか」
「おう、たいしたもんだ」
 野次馬の声を聞きながら、金平は水の威力に驚きつつ意気揚々と天守閣に戻った。

      *   
      
 ケンブリッジ小惑星センター長のワインシュタインは間違いではないかと思い、もう一度X彗星の速度と軌道を計算したが、間違いではなかった。あと十九時間五十七分で地球に衝突する。ワインシュタインはアメリカ航空宇宙局(NASA)の地球小惑星追跡システムの責任者であるトーマス・フランクリンに報告した。フランクリンはX彗星の軌道を再計算し、衝突は百パーセント確実という結果を得た。直ちにNASA本部に予想落下地点と落下時刻を報告した。落下地点は北緯三十五度十分四十八秒六十七、東経百三十六度五十四分二十三秒六十三で、名古屋市中区栄三丁目の交差点のど真ん中であった。誤差は二キロ、予想落下時刻は二〇一二年十二月十二日午前七時七分七秒(日本時間)、誤差は二秒であった。NASAは情報を直ちに米国国防総省、日本政府、世界中の天文台に伝えた。
 日本政府が情報を受け取ったのは十一日午前十一時三十九分で、衝突の十九時間二十八分前だった。二十七分後、日本政府はテレビ、ラジオ、ネットで緊急避難警報を出した。
「緊急避難警報です。彗星が名古屋市中区栄に十九時間後に落下します。この衝撃熱で栄を中心として半径十キロ圏内は全壊します。また半径十五キロ圏内では風速五十キロの衝撃波により建物が倒壊します。従って、栄を中心として半径三十キロ圏内の住民は直ちに避難してください。慌てず冷静に行動してください。当面、JR線、名鉄線、近鉄線、地下鉄、あおなみ線、市バスは平常通り運行します。また臨時に各線とも増発便を出します。繰り返します……」
 名古屋市は勿論、犬山市、江南市、一宮市、大府市、瀬戸市、春日井市等の避難圏内の住民は一大パニックに陥った。道路という道路は渋滞し、信号無視、接触事故、衝突が多発した。駅という駅は人でごった返した。プラットホームでは泣声、絶叫、罵倒が入り乱れた。「あんた! どこよ!」「おかあちゃーん!」「四番線、電車が参ります! 押さないで下さい! 押さないで下さい!」
             
 十一日午後二時(衝突十七時間七分前)、名古屋城を管理している名古屋市経済局文化観光部の職員二十名が総出で城に展示してある旧本丸御殿障壁画、天井板絵、武具、掛軸等の美術工芸品をトラックに積み込んでいた。
金平と金美は下界のただならぬ様子に何事かと思った。金美が上空に飛び、下界を見下ろした。国道二十二号線と大津通りが大渋滞になっている。金実は地下鉄市役所駅出入口に降りて、急いでいる老婦人に尋ねた。老婦人は金美を見てびっくりし、
「おみゃあさん、金鯱さんだないの。あんた、知らんのきゃ。彗星が栄に落ちて来るんやて」
「えっ、何時ですか」
「あしたの七時七分七秒だそうだよ」
金実は急いで戻り、金平と城に話した。
金平は「ここは危ない、我々も……」と言いかけて、「いや、こんな時こそ市民のお役に立たなければいけない」と言い直した。
金実も覚悟を決めて頷くと、城も必死の決意で言った。
「その通りだ。今こそ我々が名古屋を守る時だ。身共に羽根があれば飛んでいって彗星に体当たりして粉々にするのだが」
 金美が城の決意を汲み取り、金平に耳打ちして、言った。
「私達が城さんを飛べるようにしてあげましょう」
「えっ、身共が飛べるのか。それはかたじけない。彗星の奴、木っ端微塵にしてくれるわ」
 三者は彗星を迎え撃つ作戦を練った。今から攻めて行っても、どこに敵がいるか皆目見当がつかない。それより敵をぎちぎちまでおびき寄せ、一気に勝負に出るというものであった。
 翌、十二日午前四時七分(衝突三時間前)、X彗星は直径二キロの真っ赤な火の玉となり、長さ三千万キロの尾をたなびかせ、秒速二十キロで日本列島めがけて一直線に突進していた。
午前六時五十分(落下十七分七秒前)朝日が昇り、五層ある天守閣の青瓦が朝焼けの空に輝いた。金鯱夫婦は昨夜の内に大屋根から一層目まで降りていた。金平は城の北側の、金美は南側の一層目の白壁中央に、頭を下向きして、身体を固定していた。一層目のすぐ下は天守台(石垣)である。
六時五九分三十四秒(落下三十三秒前)、城の避雷針アンテナが、高度六百六十キロの彗星をキャッチした。城が「今だ!」と指令を出すと、金平と金美の口から大量の水が猛烈な勢いで地面に向かって噴出された。水煙がもうもうと高さ百メートルまで舞い上った。
落下三十一秒前 水の噴出速度は秒速八キロになり、天守閣がバリバリバリと地響きを轟かせ天守台から浮き上がった。次の瞬間、天守閣は秒速十キロで彗星に向かってまっしぐらに飛んでいた。
上昇する天守閣の雄姿を見る者は誰もいなかった。
落下二十五秒前 彗星は高度五百キロまで降下しており、天守閣は百キロまで上昇していた。彗星は青みがかった黄色い尾をたなびかせ、天守閣は二本の飛行機雲の尾を引いている。
落下二十秒前 彗星の高度は四百キロとなり、天守閣と彗星は三百キロまで接近していた。彗星の直径は三十メートルになっている。
 落下十五秒前 彗星の高度、三百キロ。両者の距離、百五十キロ。両者の衝突まであと五秒となった。
衝突四秒前 両者の距離、百二十キロ
三秒前 九十キロ
二秒前 六十キロ
一秒前 三十キロ
次の瞬間、天地を引き裂く大爆発が起こり、閃光が百キロ走った。広島型原爆の千倍の爆発力だった。激突高度、二百キロ。あと十秒で栄に落下するところだった。
天守閣は一瞬で砕け散り、断片が落下しながら燃え尽きていった。金平と金美は城の指令通り、衝突寸前に左右に全速で飛び散ったが、千七十度の爆風熱を受け、金の鱗が溶けて空中に飛び散り、中から鯱型の銅板が現れてきた。X彗星は二つに炸裂し、片方は飛散して落下の途中に燃え尽きた。もう一方は砕けずに直径十メートルの大きさで伊勢湾に向かって落下していった。
金平と金実は、鱗が全部溶け散り、銅板も剥がれ落ちて素焼きの鯱となって降下していった。真っ赤な火の玉が猛烈な勢いで伊勢湾中央に落下している。
火の玉が伊勢湾に墜落すると直径五百メートルの王冠形の水壁が千メートル上昇し、天空で一瞬止まると、そのまま海面に向かって崩れ落ち、空洞になった王冠の中心に向かって流れ込み、ぶつかり合って高さ五百メートルの水柱がせりあがり、また崩れて高さ百メートルの津波を起こした。津波は時速百キロで名古屋港、中部国際空港、四日市港に向かって押し寄せている。
金平と金美は身体がボロボロ寸前であったが歯を食いしばって水柱が上がった地点に急降下した。津波はあと一分で沿岸に到達するところであった。金平、金美は着水すると直ちに口を開けて沿岸に押し寄せて行く海水を飲みだした。普段なら大量の海水を飲むことぐらい造作もないことだったが、この時ばかりはそうはいかなかった。鱗が落ち、銅板が剥がれ、火傷を負い、極度に疲労困憊していたため思うようにがぶがぶ飲めなかった。しかし名古屋港を救うため、先代との約束を守るため、天守閣を弔うため、必死で飲んだ。 
名古屋港に向かった津波は、高さ六.五メートルの防波堤を難なく超え、埠頭に襲いかかった。埠頭には八千個のコンテナが積み上げられ、一万五千台の輸出用自動車が待機している。津波があと十秒で埠頭に達するという瞬間、逆流しだした。中部国際空港方面からも四日市港方面からも津波が逆流しだした。
三分後、津波は伊勢湾の中央に引き寄せられ、ぶつかりあって相殺され、やがて元の穏やかな伊勢湾に戻った。
それを見届けた金平と金実は、最後の力を振り絞って、ふらふらと名古屋城天守台に飛んでいった。天守台に着くと頂上の地面に降りて、息も絶え絶えに横たわった。丸裸の素焼きになった顔をお互いに見合わせ、先代との約束を果たしたことを喜び合った。
「金平さん、よくやったわね」
「お前こそ、よくやったよ」
それが最後の言葉であった。金平と金美はそのままボロボロと崩れ、土くれとなった。
              
避難していた住民は、遥か遠く名古屋の方向に閃光が光るのを見て、自分の町が全滅したと思った。
午前十時のニュースで「彗星は大気圏突入の際、爆発して燃え尽きました。名古屋市や周辺地域の被害はありません」と報道された。
翌、十三日、平常通り午前九時に名古屋城が開園され、観光客が訪れた。内堀を渡り表二之門から本丸に入って皆が驚いた。天守閣が消えてしまっている。
「おい、天守閣がないぞ」
「ほんとだ、石垣しかない。どういう事だ」
忽然と消えた天守閣のニュースは瞬く間に全国に広がった。

午後四時ごろ「天守閣、彗星に激突 金鯱、名古屋港守る」という四ページの号外が街頭で配られていた。第一ページの解説記事に続き、残り三ページにはハッブル宇宙天体望遠鏡と人工衛星が撮影したカラー写真が一ページ各六枚ずつ、合計十八枚掲載されていた。その内の十枚の写真には天守閣がX彗星に衝突する瞬間までが秒刻みで連続撮影されており、衝突寸前の天守閣は三センチ大で写っていた。七枚の写真には伊勢湾に落下する半分になったX彗星や名古屋港に押し寄せる津波が刻々と写されている。
八枚目には金鯱夫婦が写っており、目をカッと開き、口を一杯に開け、必死の形相で海水を飲んでいた。                           
                                      
                 完



四百字詰め原稿用紙換算二十枚