2011年1月16日日曜日

 地下鉄で溺れて

 二〇一一年、九月十三日。台風十三号が九州方面に接近し停滞前線が刺激され、東海地方に大雨注意報が出ていた。
水島進一は折り畳み式傘を鞄に入れて家を出た。空はどんより曇っていたが、朝から暑かった。十分後、新瑞小橋を渡るとき、いつものように橋の中ほどで立ち止まり、欄干から橋の下を流れている山崎川を覗いた。鯉や亀がのんびり泳いでいる。水島は一息つき、急いで地下鉄新瑞橋駅に向かった。三十八年間勤めた教員生活も今年度で最後だった。
 その日、水島は体調を崩していた。夏風邪が抜けきらず、身体がだるかった。それでも午前三クラス、午後一クラスの授業をどうにか終えることができた。授業を終えると、疲れがどっと出て、五時前に早々と学校を出た。
 地下鉄星ケ丘駅から本山駅までは座ることができたが、本山駅で名城線に乗り換えたところ、座席が全部ふさがっており、出入口付近に数名の乗客が立っていた。水島は奥に入り、革鞄を床の上に置いて両足で挟んで立った。鞄には夏休み明けの実力考査の答案が二百枚入っている。鞄を荷棚に置き忘れたら大変なことになる。
電車は名古屋大学駅に着いた。学生が七八人乗ってきた。電車のドアが閉まり、発車した。「次は、八事日赤、八事日赤」と、アナウンスが流れた。水島は立っていることが精一杯で、誰か席を替わってくれないかと思いながら、辺りを見回した。目の前には三十歳ぐらいの男が本を読んでいる。左隣りは二人の女子高生で、話に夢中だ。右隣には五歳ぐらいの女の子が退屈そうに座っている。女の子の隣りには母親らしい女性が携帯電話をいじっている。
 水島は急に目まいがして、その場にしゃがみこんだ。
 しゃがんで、床を見ると床が濡れている。周りを見た。床一面が濡れている。濡れていると言うより水浸しになっていると言った方が良かった。水島は座っている人の顔を見上げた。誰も水に気がついていない。幻覚かもしれないと思った。その内に水かさが増し、一センチほどになった。水は電車が揺れるたびに左に右に床を流れた。どこから水が入ってくるのかと思ってドアを見た。ドアは閉まっている。連結部を見て驚いた。連結部から泥水が流れ込んでいる。水島はあわてて鞄を持って立ちあがり、思い切って言った。
「みなさん、床が水浸しです」
 声が小さかったのか、誰も気がつかない。水かさが増して二三センチになっている。もう一度言った。
「みなさん、水です。床が水浸しですよ」
 水島の声は電車が走る騒音にかき消されて誰にも聞こえないようだ。水島は焦った。目の前の男の本を取り上げて言った。
「床を見て下さい」
 男は「何すんですか!」とにらんで本を取り返した。
 女の子が言った。
「お母さん、電車に水が入ってきたよ」
 母親は「馬鹿なこと言わないで」と言うだけで携帯から目を離さない。
 女の子が、水が入ってきたよと言ってるんだから幻覚ではないと水島は思った。水かさは五センチほどになり、靴は水びたしで、足踏みをするとバシャバシャ音を立てた。冷たい。確かに水だ。夢ではない。水かさは増し、電車が揺れるに連れて前に後ろに波打つようになった。水島は教室で生徒を叱りつけるぐらいの大声で怒鳴った。
「みんな、何してんだ! 水が見えないんか!」
 やっと乗客は水に気がついた。何人かの人が驚いて座席から立ちあがった。
「水だ! 泥水だ!」
「どうしたんだ!」
「雨だ。大雨注意報が出ていた」
「地上は大雨だ」
「集中豪雨だ!」
「川が決壊したのかも」
「そんな馬鹿な」
 後ろの座席に座っていた男子高校生三人が床に置いてあったスポーツバッグを荷棚に上げた。バッグから水が滴った。携帯をいじっていた母親は女の子を座席の上に立たせた。水は十センチぐらいの深さになった。ドアの隙間からも水が浸み込んできた。電車は減速して八事日赤駅に着いた。ドアが開いた。途端にホームの泥水が車内に入り込んできた。ドアの前に立っていた男が、水に足をすくわれ転倒しそうになった。十人ぐらいの人が、流れ込んでくる水に逆らって、じゃぶじゃぶとホームに降りた。誰も乗ってこなかった。車内は三十人ほどになった。ドアが閉まり、電車は走り出した。水は座席の高さまで来た。子供達はみんな座席の上に立ち、つり革につかまった。つり革につかまることができない子は、親が両手で身体を支えた。車内は泥水のプールだ。電車の細かい振動につれて、水面が震えている。泥水が水島の膝の上まであがって来た。持っている鞄が重くなり、荷棚の上に置いた。鞄を絶対に水につけてはいけないと思った。数人の大人も座席の上に立った。連結部から水がゴボゴボと泥水を噴き上げ、天井の換気孔から水が滴り落ち、乗客の身体が水滴でぐしょ濡れになっている。水島は答案が心配になり、荷棚から鞄を降ろして、鞄のチャックを一杯に閉めなおし、また荷棚の上に置いた。身体が冷えて来た。乗客の騒ぐ声や子供の悲鳴が、ばく進する電車の轟音に混じって響いている。悪臭が車内に立ちこめている。車内アナウンスが流れた。
「お客様に申し上げます。ただいま交通局から入りました連絡によりますと、集中豪雨のため矢田川が決壊し、名古屋市北東部一帯が、床上浸水などの被害にあっているそうです。水は名古屋ドーム矢田駅や砂田橋駅から地下鉄に流れ込み、猛烈な勢いで線路伝いに八事方面に向かっているそうです。もし追いつかれると電車は洪水に飲み込まれてしまいます。従って、この電車はドアを閉じたまま新瑞橋駅まで全速力で突進します。その先は運行しません。お客様は新瑞橋駅で全員降りて下さい。新瑞橋は水の被害が今のところないそうです。お客様にはご迷惑をおかけしますが、ご協力をお願い致します」
 放送が流れている内にも水かさは増し、床から一メートルほどの深さになった。あと、五十センチも増えれば、首まで水が来る。溺れるかも…。二人の男性が泣き叫ぶ幼児を荷棚の上にのせた。母親が幼児を両手で支えながら立った。電車が揺れるたびに大きな波が起き、カーブを曲がるときは、水が一方に片寄り、水面が荷棚まであと五十センチ程になった。紙袋や帽子やペットボトルが泥水に浮いている。車内の電気が消えたりついたりしだした。線路沿いの照明灯がパッ、パッと猛烈な勢いで流れ去りながら、車内を照らしている。水島は電気が消えるかも知れないと思った。窓の外が急に明るくなり、どこかのプラットホームを全速力で通過している。車内の電光掲示板に「総合リハビリセンター」と表示された。水島は窓から流れ去るホームを見た。ホームが二十センチほど水につかっている。八事日赤のホームの水深より十センチ減っている。電車はフルスピードで車内の水を外に流しながら走っている。すぐに車内の水は床から八十センチぐらいになった。突然、電気が消えた。線路沿いの照明灯も消えた。真っ暗になった。
「キャー!」
「怖いよー! お母さん!」
「高雄! 高雄! どこにいるの!」
「佳代、しっかりお母さんの手を握ってるんだよ」
「お前、いるか!」
「あなた!」
 電車の轟音は悲鳴をかき消しながら突進している。真っ暗闇を突進している。また急に明るくなった。瑞穂運動場東駅だ。車内がホームの明かりで照らされた。水島はホームを見た。水深は十センチぐらいだ。すぐ暗くなった。「あと二分だ。あと二分だけ真っ暗闇を我慢すれば新瑞橋駅に着く。もう少しだ」と思った。しかし、電車はなかなか新瑞橋につかない。このまま永遠に暗闇を走り続けるように思えた。水島は荷棚の上に置いた鞄を手探りで捜した。鞄に手が触れ、しっかりつかんだ。先ほどまで聞こえていた悲鳴が沈黙に変わった。「もうすぐ新瑞橋だからね」と母親が言っている。水は膝の高さまで減ってきた。電車のスピードが落ちてくると、暗闇で車内の泥水の流れを感じた。水が一斉に進行方向に流れだした。遠くから新瑞橋のプラットホームの明かりが車内を照らしてきた。次第に明るくなってきた。ほっとした。電車が減速し、プラットホームに滑り込んだ。まぶしい。電車がブレーキをかけた。泥水がペットボトルを浮かせたまま一斉に連結部の方に波打って流れた。電車が止まった。今度は泥水が連結部から逆流してきた。水島は鞄を抱えた。ドアが開いた。車内の水がホームにあふれ出た。水島は人と水に押されてホームに出た。助かった!プラットホームの水は五センチぐらいしかない。早く地上に出ないと矢田川の洪水が新瑞橋まで来てしまう。水島は右手の階段の方に急いだ。たった五センチの深さの水でも足をとられる。鞄をしっかり抱えてじゃぶじゃぶ歩いた。足が思うように動かない。階段から二メートルぐらいのところまで来た。水がちょろちょろ階段を伝って流れ落ちてきている。階段の右側に並列しているエスカレーターは止まっていた。アナウンスが流れた。
「緊急連絡致します。至急地上に避難してください。十五分前、天白川が決壊し、川の水が野並駅や鶴里駅から地下鉄に流れ込んだそうです。―今また連絡が入りました。山崎川も決壊したそうです。あっ、駅に水が流れ込んできました。皆さん! 至急地上に避難してください! 繰り返します、ああっ! 水が、水が…」
アナウンスが切れた。
 水島は焦った。急いで階段までたどり着き、階段を登り始めた。階段を五六段上がったとき、ザザザーと言う激しい水音が頭上から聞こえて来た。上を見た。階段一杯に濁流が狂ったように水飛沫をあげ、滝の如く流れて落ちて来る。瞬く間に水島の足もとに達した。水島は左手で鞄を持ち、右手で手すりにつかまろうとしたが、濁流に足を取られ転倒し、そのまま階段を転げ落ち、ホームに押し流された。ガボガボと泥水を飲んでしまった。激しく咳こんだ。咽が痛い。起き上がろうとしても、階段から猛烈な勢いで流れてくる泥水に足を取られて起き上がれない。目の前の鞄がどんどん奥へ流されていく。水島は濁流に押し流されながら、四つん這いになり、やっと立ち上がった。鞄がホームに設置してあるベンチの端にぶつかり、そこで沈みかけている。水かさはホームから二十センチぐらいの高さになった。水島は泥水に押し流されながら、やっと鞄に追いついた。鞄に手を伸ばした。その瞬間、電気が消えた。真っ暗になった。ホームのあちこちから悲鳴が聞こえ、階段から流れ落ちる滝の音と反響しあった。真っ暗で何も見えない。鞄を見失った。水島は茫然と暗闇の中に立った。泥水がどんどん足にぶつかって来る。仕方がない。答案よりも自分の命の方が大事だと思った。ホームにある三つの階段から泥水が流れ込み、柱に当たった水が渦を巻いている。階段を流れ落ちる濁流の勢いは衰えていない。水島が登ろうとした階段とは反対方向から急に力強い流れが水島を襲った。水深が膝までぐらいだったのが、急に水かさを増し、ホームから一メートルぐらいの深さになった。矢田川の洪水が新瑞橋で、天白川と山崎川の洪水と合流し、どんどん水かさが増していった。一メートル十センチ、二十センチ…。聞こえるのは水が流れる音と、波の音、かすかな人の声。真っ暗闇だ。水島は「間違った方向に歩くとプラットホームから線路に落ちてしまう。落ちると水深は二メートル以上なる」と思った。ゆっくり足でホームをまさぐりながら暗闇を進んだ。どちらに進んでいるのか分からないが、兎に角、一定方向に向かって歩けば、階段にぶつかるはずだと思った。身体が冷えてきた。手足がしびれてきた。暗闇で何かにぶつかった。手で触った。丸い柱だ。そうか、柱があると言うことは、このどちらかが線路だと思った。人の声がだんだん消えていき、聞こえるのは水の音だけになった。「あっ!」水島はホームから足を滑らせ、線路に落ちた。必死で水を蹴った。顔が水面から出た。蹴りながら足先でホームを探した。蹴っても、蹴っても水を蹴るだけで、ホームに足が触れない。このまま蹴り続ける力はないと思った。水島は身体の向きを変えて蹴った。三分ほど必死で水を蹴っているとホームに足がついた。立ちあがった。水は胸のあたりまで来ている。また泥水を飲んでしまった。水島は「そうだ、ホームの端には盲人者用の黄色い誘導プレートがある。伝っていけば、階段までたどり着くはずだ」と思った。真っ暗な中を進んで行くと、また円柱にぶつかった。片手で円柱に触り、その周りを回りながら足を思い切り伸ばしプレートを探した。靴がプレートらしき物に触れた。よし、これを伝っていけば階段に出る。そろそろと暗闇の中を誘導板に沿って歩いた。靴の底では誘導板のでこぼこが足にじかに感じられない。水島は靴を脱いで裸足になった。誘導板を足の裏でつかみながら進んだ。水かさが増えてきていた。猛烈な勢いで三本の川の濁流が流れ込んでいる。こんな暗闇の泥水の中で死ねないと思った。慎重に足でプレートをまさぐりながら進んだ。階段の濁流の音が聞こえなくなった。水かさも胸のところで止まり、それ以上増えなくなった。「地下鉄の入口で洪水が流れ込むのを防いだのだろう。水かさが増えるのが止まれば、あとは階段を探せば何とか助かる」と思った。しかし真っ暗で、階段は見えなかった。天井から落ちる水滴の音が聞こえる。悪臭がする。人の声は全く聞こえない。みんなどこに行ったのだろう。もう歩けない、と思ったとき、プレートが直進方向と左折の二つに分かれているのに気がついた。水島は左に曲がれば階段があると思い、左折して進んだ。暗闇の中で足の指が硬いものにぶつかった。階段だ。辺りがうすぼんやりと見えるようになった。階段の上部からかすかな光が差し込んでいる。水は階段を流れ落ちていなかった。水島は手すりにつかまりながら階段を登った。一段登るごとに明るくなっていった。六段登ったところで身体がやっと水から出た。周りは明るかった。下を見た。泥水がすぐ足もとまで来ている。よく見ると何か丸い黒いものが浮いていた。小さな亀だ。泥水の中では死んでしまうと思って、亀を拾い上げ、ズボンのポケットに入れた。残りの階段をずぶ濡れでゆっくり上った。上の方の階段は乾いていて、先ほどまで濁流が流れ込んでいたとは思えなかった。階段を登り切り、ひと息ついて、改札口にたどり着いた。改札口を出ていく乗客が何人かいた。彼等は自分と同じように真っ暗闇の中を生死の境目で戦い抜いた戦友だと思った。改札口の上にかかっている時計を見た。六時二十分だ。星が丘駅で地下鉄に乗ったのは五時過ぎだったから、一時間以上地下鉄の中で洪水に翻弄されていたのかと思った。自動改札機のところに来た。まさかこんな緊急時でも切符を機械に通すのかと思いながら、尻ポケットを触った。ポケットは濡れていたが、財布が無事に入っていた。財布から敬老パスを抜き取って投入口に入れた。ポーンと鳴って改札機の通路が遮断板でふさがれた。えっ、水に濡れたからパスがおかしくなったのかと思って立っていると、駅員が来た。駅員はパスを改札機の取出口から抜き取って、
「お客さん、これ、テレフォンカードですよ」
 と言った。水島はうろたえた。
「あっ、すいません。敬老パスと間違えました。何しろ、今の地下鉄の洪水で気が
動転していまして」
「洪水って、何のことですか」
「何言ってんですか。天白川が決壊して、地下鉄に水が流れ込んだでしょう」
「天白川が決壊ですって?」
「そう、矢田川も決壊したでしょう。あなた知らないんですか。わたしは地下鉄で溺れそうになったんですよ」
「冗談はよしてください。天白川も矢田川も決壊してませんよ」
「冗談じゃないよ、わたしゃ死にかけたんだよ」
 と言いながら、水島は改札口から人が次から次へと入って来ているのに気がついた。おかしい。地下鉄が洪水なら電車は運休しているはずだ。駅員は水島を小馬鹿にしたようにして言った。
「そうですか。それは大変でしたね。今度は間違えずに敬老パスを入れてくださいよ」
と言って去って行った。いやに「敬老」と言う言葉を強く言ったように聞こえた。
 水島は改札口を出て、六十段ぐらいの長い階段を息を切らしながら登り、バスターミナルに出た。空は曇っていた。景色はいつもと同じで、とても洪水が襲ったような様子ではなかった。狐につままれた様に思いながら新瑞小橋まで歩いた。橋の真ん中で立ち止まり、欄干から山崎川を覗いた。川は濁っていない。いつものように穏やかに流れ、鯉や亀がのんびり泳いでいる。橋の南側に立っている三本の街路灯が周りを明るく照らしている。
水島は「変だ。夢を見たのか。しかし、泥水を飲んだし、それから、鞄をなくしてしまったし。一体どうしたのだろう」と思った。
 ズボンのポケットで何かがうごめいた。手をポケットに突っ込んだ。何かに触った。亀だ。あのとき拾った亀だ、と思ってズボンから亀を引きだした。泥が甲羅についている。
「こうして俺は亀を持ってるんだから、洪水があったと言う何よりの証拠だ」
と思った。水島は首をひっこめている亀を見た。亀が頭を半分出してきた。
「ああ、そうだ。この亀を助けてやらねば」
と思い、欄干から亀を川に放り投げた。亀は小さな水飛沫をあげて川に沈み、それからすぐに足をばたつかせて浮き上がってきた。気持ち良さそうに泳ぎだした。良かった。しかし、地下鉄が洪水になったのか、ならなかったのか、水島は分からなくなった。欄干からもう一度鯉やら亀を見た。川の流れをじっと見ていると橋が後ろへ後ろへ下がって行くように感じた。疲れがどっと出て目まいがしてきた。

 地下鉄の電車の走る音が聞こえてきた。
 車内アナウンスが聞こえる。
「まもなく、八事日赤、八事日赤。お出口は左側です」

                        完

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