2010年1月12日火曜日

ニューカレドニアの名ガイド (旅行記)


 この夏ニューカレドニアに行ってすばらしいガイドに会った。
 ガイドはフランス人のムッシュ・フランソワ。四十歳ぐらいのやさ男。ユーモアがあって博識多才。日本語が上手で料理がうまい。
 午前八時十九分、フランソワさんはホテルのロビーに私達を迎えに来た。これからリビエルブルー州立公園ツアーに出発だ。
「フランソワ、デス。ドウゾヨロシク。少シ遅レマシタ。スミマセン」と言ってツアーに参加する四人(私と妻、二十代の女性二人)と握手をして、私達はマイクロバスに乗りこむ。途中、二つのホテルで二組のカップルと青年をピックアップ。
フランソワさんは全員がそろうと「アン、ドウ、トロワ、カートル……」とフランス語で数えて、「オールトゥゲザー、テン、インクルーディング、ミイ。全部デ、私モイレテ、十人デス」と英語と日本語で言って、いよいよ出発。ガイドはフランス語、英語、日本語のチャンポンでなされた。
 目的地まで約四時間のドライブだ。フランソワさんは、首都ヌメア市の博物館、教会、図書館などを説明しながら、子供時代の話をした。ココティエ広場公園を通過するとき、「私ガ子供ノ時、コノ辺リハ、海岸デシタ。泳ギマシタ。デモ、今ハ埋メ立テマシタ」と説明してくれた。
 フランソワさんによるとココティエ広場公園はニッケルや鉄鉱石を掘り出した時に出た土や廃棄物で埋め立てて作ったと言う。ニューカレドニアは世界有数のニッケル産出国だそうだ。
バスはヌメア市を離れ、山道にさしかかる。道の両側がうっそうと茂った樹木に変わる。赤茶けた、なだらかな山が木の葉を通して遠くに見える。
周りの景色が木ばかりとなると、説明するものがない。「右に見えますのは木です。左に見えますのも木です」では話にならない。普通のガイドならこうなると、ダンマリを決め込み運転一筋になるだろう。しかし、フランソワさんは違っていた。それからの約一時間、説明に次ぐ説明だった。
 一体何の説明? 驚くなかれ、ニューカレドニアの誕生から説明をしだした。ジュラ紀か白亜紀かなんだか分からないが、二億年か二千万年前の話から始まった。その頃はオーストラリアとニューカレドニアが陸続きになっていて、地球のマグマか地殻変動かでオーストラリアの東側、すなわちニューカレドニア側の陸地の一部が沈没し、ニューカレドニアはかろうじて海に沈まず、島として残ったらしい。地学の講義を受けているようだった。
 今まで私は二十カ国ほど海外旅行をしているが、恐竜時代からその国の成り立ちを説明するものは皆無であった。
 説明も熱がこもっていて、左手でハンドルを握り、右手を空中に挙げ、激しく動かしながら説明する。時には、左手もハンドルから離し、両手を頭上に挙げ、左手はオーストラリア大陸、右手はニューカレドニア島のつもりで「ココガ海ニ沈ミ、ニューカレドニア島ガ出来タ」と説明する。危なくてヒヤヒヤだった。
マイクロバスは、山の奥へ奥へと入っていった。フランソワさんは相変わらず、両手をハンドルから離したりして熱烈な説明を続ける。道は広い直線道路ではない。対向車が来たらすれ違いが出来るか出来ないぐらいの狭い道で、曲がりくねっている。それを猛スピードでキキキーと曲がってしまう。私は遠心力で窓から何度も飛ばされそうになった。
説明は続く。今度はニューカレドニアの住民についてだ。なんでも千八百七十何年かに三千人のフランスの政治犯がニューカレドニアに島流しになり、七年後に彼らは「フリーチケット、タダチケットデ、フランスニ帰リマシタ」そうだ。
次に、南太平洋に浮かぶ島々の説明になった。すなわち、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアの違いとそれぞれに属する島の名前を次から次へと説明しだした。ソロモン諸島とナントカ島はナントカネシアに属し、マリアナ諸島とナントカ島はナントカネシアに属するとか。左手にハンドル、右手で空中に南太平洋の島の位置を示しながらの説明。ああ、地図があればなあと思った。
ガイド氏は次にニューカレドニアの名前の由来を話しだした。キャプテン・クックが千七百何十何年かにこの島を望遠鏡で発見し、よく島を見たらスコットランドの山の形をしていたから、スコットランドの別名であるカレドニアにちなみ、ニューカレドニアと命名したと言う。スコットランドはイギリスがローマ帝国に支配されていた当時、カレドニアと呼ばれていたそうだ。
フランソワさんの説明は尽きることがなかった。ニューカレドニアだけに育つ花とか木とか鳥の話、ラテン語由来の地名や動物の話、ニューカレドニアの宗教や民族の話など、どんどん話してくれた。
景色の良いところではバスを止め、写真を撮る機会を与えてくれた。「ワタシ、運転手、ガイド、カメラマン、コック、何デモシマス。二人ノ写真トリマス」と言って私達夫婦の写真を取ってくれた。
ヌメアから一時間ドライブして森林博物館に到着。トイレ休憩とジュースだ。ほっと一息しているとフランソワさんがダンボール箱を両脇に抱えて登場。私達九人は彼を囲んで館内のフロアーに座った。
彼は一つの段ボール箱から約十種類の杉の実の標本を、もう一つの箱からは十個ぐらいの鉱物のサンプルを取りだして私達の前に並べた。植物学と地質学の講義の始まりだ。
講義内容はほとんど忘れてしまったが、取り出した杉は何でもニューカレドニアにしかない杉で、その種子はインドネシアやブラジルから鳥や海流によって運ばれたものだそうだ。赤茶けた杉を手に取って「コノ杉ノ葉ニハ、トゲガナイ。何故デスカ。野生ノ動物カラ種子ヲ守ラナクテモ良イカラ」と言って、松カサのような形の杉の実を空中にかざして私達に見せ、葉を一枚一枚はがして飛ばした。
次は鉱物の講義。「ニューカレドニアハ、マグマガ隆起シテデキタ。ダカラ、珍シイ鉱物ガ沢山アル」と言って、鉄鉱石とかニッケルの原石とかナントカ石とかを見せ、一つ一つの石の説明をして、私達に石を持たせてくれた。鉄鉱石は重かった。
次に森林博物館の回りに生えている草花を指差して、「コノ島ノ土ハ鉄分ガ多イ。酸性土壌デス。普通、酸性土壌ニハ植物ガ育タナイ。何故ココデハ育ツノデスカ? 不思議デス。土壌ノ中ノ、バクテリアノ、オカゲ」などと、かなり専門的な講義をしてくれた。
講義が終わって再出発。三十分ほど山道をさらに奥地に走ると、やっとリビエールブルー州立公園に到着。まず目につくのがヤテ湖。川をダムでせき止めてできた人造湖だ。上高地の大正池のように、湖の中にひょろ長い木が林立していて風情がある。湖を囲む山並は穏やかな曲線を描いている。森林の中のオアシスだ。
「ココデ二十分、休ミマス。トイレハ、アソコノ小屋デス。シカシ、女性ダケ使エマス。男ノ人ハ森ノ中デス」と冗談。
時間は十一時頃だ。昼飯は湖の対岸のキャンプ地でバーベギューだそうだ。元気が出る。休憩後、湖にかかっている橋を渡ることになる。幅の狭い木の橋で欄干がない。車は通れないので、ここで全員が下車する。歩いて渡るのだ。
「今カラ、橋ヲ渡リマス。コノ橋ハ女ノ人ハ禁止デス。ダカラ、女ノ人ハ、泳イデ下サイ」とまた冗談。
橋は板張りで丁度スノコのようになっており、板と板の隙間から湖が足の真下に見えておっかない。
橋を渡ると対岸に待たせてあった車に乗るのだが、車が小さい。運転手の座席をいれて九席しかない。フランソワさんは二人の若い女性に「アナタ達ハ車ノ、ナービゲーターデス。スミマセン、助手席に二人乗リマス」とお願いする。二人は助手席に詰めて乗る。全員乗り込んで、出発するときにフランソワさんは助手席の二人に「ナービゲーターサン、マッスグ行ケバ良イデスカ」と尋ねる。窮屈そうな二人も「はい、まっすぐです」と答える。
ヤテ湖から二十分ぐらい走ると熱帯雨林の真っ只中に入り込む。クククク、グヮグヮグヮ、コーコーと、鳥の声がいっぱい聞こえる。ジャングルだ。今からニューカレドニアの国鳥カグーを見るのだ。このあたりに五羽生息しているらしい。カグーはニューカレドニアにしか生息していない。
「クワクワッ、ククー、クワクワッ、クククー」とフランソワさんが鳥の鳴き声をだした。両手の指をほら貝のように丸めて、唇に当てている。この鳴き声を聞いて、カグーが出てくるらしい。しかし五分たっても十分たっても出てこない。そこで、車に装備してあるテープレコーダーを再生して鳥の鳴き声をボリュームいっぱいに上げて森に響かせる。すると、木の茂みから可愛いカグーが一羽、道に出てきた。大きさは鶏より一回り大きめ。羽根は全体が白。くちばしと目と脚が赤。頭はトサカがなく、ツルンと丸い。目がくりくりっと丸い。後頭部に十センチほどの羽根が垂れ下がっている。愛嬌があって人懐っこい。カメラをすぐそばに向けても全然動じない。人間を信用している。そのうちに親鳥と思われるカグーが二羽登場。さらに道の反対側の木立からも、もう一羽現れて合計四羽が私達のそば寄ってくる。ここぞとばかりシャッターを押した。カグーはしばらく私達のそばにいて、それから森に帰っていった。
その後、車を十五分ぐらい走らせ、広場に到着して下車。そこから細い道を奥に向かって一〇分ぐらい歩くと、ニューカレドニアにしか生えてないというカオリの巨木に着いた。「樹齢千年。幹の直径三メートル。高さ四十メートル」と立札に書いてある。幹は白く、触ると湿っていて苔が生えている。巨木の梢を見ようとしても、周りの木の葉が邪魔になって見えない。首が痛い。
「ココカラ、散歩デス。三十分グライ、コノ山道を歩クト、キャンプ場デス。私ハ先ニ行キマス。バーベキューノ準備シマス」とフランソワさんは言って、先に車でキャンプ場に向かった。
山道は傾斜がゆるやかで赤茶色だった。フランソワさんによると、山や道が赤いのは鉄分を多く含んでいるからだそうだ。道の両側からトンネルのように覆いかぶさった青緑の葉がキラキラ輝いていた。
キャンプ場に着いた。昼飯だ。清流のそばに長い木製のテーブルがあり、その両側のベンチに五人ずつ座って、地元の「ナンバーワン」という銘柄のビールで乾杯! 料理は全部フランソワさんのお手製(奥さんが前の晩に手伝ったかも)。サラダ、パン、エビ、ジュース、ソーセージ、レモンなど。メインは鹿肉。先ほどフランソワさんがうちわでバタバタ扇いでジュージュー焼いていた。ビールと鹿肉と鳥の声。最高! 最後はデザートにパイを食べ、コーヒーも出てすばらしい昼飯だった。  
昼食後は自由時間。みんな思い思いに清流に行って河原で遊ぶ。水が澄み切っていて冷たい。
私はフランソワさんに「どうしてあなたはそんなにいろいろなことを知っているのですか」と尋ねた。答に感心した。「オ客様ガ、私ノ説明デ、喜ブノハ、ウレシイデス。単ナル、ガイドナラ、誰デモデキマス」。フランソワさんはガイドをするなら徹底的にやろうと思ったそうだ。それで、彼はスペイン語、イタリア語、英語、日本語、ラテン語を勉強したと言う。日本語は独習だそうだ。それからイギリスの大学とフランスの大学で観光学科に入学して観光学を勉強したそうだ。「日本人ガ、ニューカレドニアニ沢山来ルカラ、日本ノ勉強モシマシタ。日本ニ行ッタコトアリマス。奈良ニ行キマシタ。京都ハ、マダ」とのこと。
私は日本の大学で最近観光学科が設置されてきたことを知っていたが、フランソワさんのように自国の太古からの地勢、歴史、文化、産業を調べ、動植物の研究をし、さらに観光に来る相手の国々について勉強しているガイドには会ったことがなかった。
話題がラテン語のことになり、いろいろと教えてもらった。例えば、ヌメア市にある競馬場は「ヒポドローム」と言う。ラテン語で「ヒポ」は「馬」のことで、「ドローム」は「走路」のことだ。だから「ヒポドローム」は「馬の走路」という意味になる。また、「河馬」のことを「ヒポポタマス」と言うが、「ポタマス」は「川」のことだから「ヒポポタマス」は「川の馬」の意味となる。さらに、古代文明発祥の地メソポタミアの「メソ」は「真ん中」という意味で、「ポタミア」は「川」だから「メソポタミア」は「川の真ん中」すなわち、チグリス川とユーフラテス川の間という意味になる。
「うーん」私はうなってしまった。私の高校時代の世界史の先生が「メソポタミア」を教えるのに、このように言葉を分解して教えていたら、もっとメソポタミアに愛着を持っただろうと思った。
一時間ぐらい川遊びをしている間にフランソワさんはあと片付けを完了。帰路についた。帰りはバス内にニューカレドニアの音楽が流れた。キャンプ地を後にし、ヤテ湖の木橋を再び渡り、二十分休憩。車を乗り換えて約一時間走り、「湧き水の泉」に寄って休憩。それから半時間走って赤い夕陽がアンスバタの海に沈む頃ホテルに着いた。
ホテルの玄関でフランソワさんは若い二人の女性に「アナタ達ハ、素晴ラシイナービゲーターデシタ。アリガトウ」とお礼を言った。
 旅行が楽しくなるのも不愉快になるのも、旅行先で会った人がどういう人であったかで決まることが多い。いくら美しい景色を見てもガイドが不親切であったら気分を害する。平凡な景色でもガイドの説明一つで楽しいものとなる。もちろん同行の旅行者の人柄も関係はしてくるが、ガイドの役割は大きい。今回の旅が素晴らしかったのは景色とガイドの両方が良かったからだ。
 現地の観光案内の人が「フランソワさんは、あちこちの観光業者から引っ張りだこだ」と言っていたが納得した。もしニューカレドニアに行かれるのなら、ガイドはムッシュ・フランソワがお勧めだ。
                                     (2008年夏)

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