2013年5月15日水曜日

経文禍


 

 

経文禍
 

私の家の宗教は真言宗で、空海には少年時代から興味を持っていた。また、家には「南無観世自在菩薩」と書かれた掛軸が代々伝わっており、法事の度に父と御坊様は床の間に飾ってある掛軸を見ながら、「どうごん、どうごん」と言っていた。私は「どうごん」とは一体何のことだろうと子供ながらに疑問に思っていた。

平成二十四年九月二十九日、香川県善通寺市にある善通寺釈迦堂の修復中に(どう)(ごん)の日記が発見された(三十日付朝日新聞)。道勤は空海を出家に導いた高僧空海著『三教指帰(さんごうしいき)』)、日記の発見は「日本の仏教史上、画期的な出来事」であった。

翌年三月末日、私は六十歳の定年で教職を退き、四国八十八ヶ所遍路の旅に出た。五月二十七日、七十五番札所である善通寺に到着し、日記を拝読する機会を得た。日記は唐語で書かれており難解であったが、善通寺慈観管長のおかげで大意を掴むことができた。

日記には、道勤が遣唐使として唐に渡った日から、帰朝までのことが書かれていた。特に私が興味を持ったのは、道勤が劣等感を抱き、死の淵に投げ込まれ、ついには開眼するに至った過程が赤裸々に書かれていた点である。

読み終わって、私はこのような貴重な日記をこのまま埋もれさせてしまうのは勿体ないと思った。しかし、唐語のままで出版しても一般の人には難しくて読むことができない。そこで、慈観和尚のお許しを得て、無鉄砲ではあるが物語風にして世に出すことにした。

 
私は宝亀十年(七七九年)五月八日、三十二歳の時、第十七次遣唐使留学僧として入唐し、長安の大慈恩寺において玄奘三蔵の孫弟子に当たる不空和尚から密教を学んだ。当時、不空和尚を師として修業していた僧に、二歳年上の恵果がいた。恵果は私の兄弟子ということになる。

玄奘法師は天竺から持ち帰った梵経を十九年かけて漢訳したが、その数は一三四七巻に及んだ。私はこの気の遠くなるような数の経典をひたすら読み、思索し、木簡に写経した。その場合、ただ左に書いてある文字を右に写すのではなく、経文の一字一句を音読し、理解に勤め、間違いのないように最大の注意を払って書き写した。

三年間の滞在中に私が書写した経典の主なものは『蘇悉地経(そじつじきょう)』『金剛頂経』『大日経』『大日経疏(だいにちきょうそ)』『般若心経』『理趣経』『瑜祗経(ゆぎきょう)』『要略念誦経(ようりゃくねんじゅきょう)』で、木簡の数は約五千本にのぼった。

私は恵果と互いに切磋琢磨して密教の奥義を深め合った。しかし、実を言うと、私は恵果に劣等感を抱いていた。恵果と密教に関して議論すると、必ず恵果の方が経典を深く理解しており、二人とも約三年間、同じ不空和尚から学んでいながら、なぜ恵果の方が密教の真髄をよく理解しているのか分からなかった。

和尚は或る時、「経文を読もうとするなら、経文を読んではならない」と言った事があった。まるで謎解きで、恥ずかしながらその意味が理解出来なかった。いくら考えても納得する答が出ず、思い切って恵果に訊くと、「分かるような気がする」と答えた。一瞬、恵果は見栄でそう言っているのかと疑ったが、恵果はそのような人物ではないことは承知していた。恐らく私に遠慮して、分かるような「気がする」と答えたのだろうと思った。

私は焦った。朝廷から派遣された留学僧として情けないことだ。経典の読みが足りないのではないかと考え、何度も只管朗読した。お蔭でと言おうか、『蘇悉地経』『大日経』『金剛頂経』の真言三部教はほとんど暗誦できるまでになった。しかし、和尚の謎が分からないまま滞在期間の三年が過ぎてしまった。

天応元年(七八一年)十一月二十八日、長安を三日後に去るに当たり、恵果を青龍寺に訪ねた。別離の酒を飲み交わし、密教を論じ合ったが、その内に話題が書に移った。恵果は唐の三筆と言われており、篆書(てんしょ)、隷書、行書などあらゆる書体を自由自在に書くことが出来た。密教の理解においても、書においても私は恵果の足元にも及ばなかった。達筆な書を書きたいと願う者として、私はその極意を訊いた。

「いや、いや、愚僧の書など林藻や高閑には到底及びませんが、書をする場合に心得ていることがございます」

と言って次のように語った。

「後漢の書家張芝(ちょうし)の言葉だそうですが、書の法は、第一は指で書くな、手で書け。第二は手で書くな、腕で書け。第三は腕で書くな、肩で書け。第四は肩で書くな、体で書け。第五は体で書くな、心で書け。第六は心で書くな、無心で書け。第七は気ままに書け、だそうです。これは不空和尚が言っている『経文を読んではならない』に通ずることではないかと思うのです」

ここまで恵果に言われて、私はなんとなく和尚の言葉の意味が分かるような気がした。最も、分かると言っても理屈の上であって、実感としては理解できなかった。兎も角も、書の法と和尚の言葉を結びつけて考えることが出来る恵果に心服した。私は日本に帰ったら、今度派遣される留学僧を恵果に紹介しようと心に決めた。(この留学僧が空海である)

十二月一日、遣唐使船に乗るための準備をした。持ち帰るものは五千本の木簡約百六十冊、仏像、仏舎利、菩薩立像、半跏(はんか)像、諸尊仏龕(しょそんぶつがん)、密教法具、曼荼羅、数珠等であった。木簡百二十冊は、海水に濡れないよう五冊ずつ油紙に包み、その他の品々と共に木箱に入れた。木箱は三箱になった。残る木簡四十冊、仏像、曼荼羅は、これも油紙に包み、笈に入れて背中に担ぐことにした。笈の重さは三貫弱(約十キロ)になった。笈の表には「南無観世自在菩薩」と墨で書いた。

十二月十二日 蘇州から遣唐使船に乗り、南路で日本に向かった。

翌年一月二十三日 奄美に着き、船の修復や補給をした。

一月二十七日 薩摩半島の坊津(ぼうのつ)に入港し、順風を三日待って北上。

二月五日 坊津を出航。坊津から九州西岸沿いに航行して長崎に到着。長崎から玄海灘を通って博多津へ向かう予定であった。 

  正午過ぎに船が玄界灘に入るころ、黒雲が空を覆い始め、海が荒れてきた。私は万が一のことを考え木箱を帆柱に縛りつけた。また、人に頼んで笈を紐で身体に縛りつけてもらった。

海は荒れだし、嵐になった。嵐は夕方まで続き、帆柱が二本とも折れ、帆が破れ、舵が効かなくなり、日本海を北へ北へと流され、座礁して舳が破れ、船は幾つかに割れてしまった。私は船が沈没する時、海に投げ出されたが、幸い笈が浮き袋の代わりになり、海に浮かぶことが出来た。見ると、帆柱に三、四人の人が必死にしがみついていた。

 どれぐらい漂流したかわからない。身体が冷え、力が尽きてきた。それでも、笈のおかげで辛うじて海に浮かんでいることができた。気がつくと御守りとして手に握っていた数珠がない。不吉に思った。ようやく嵐がおさまってきたというのに一人寂しく大海で死んでいくのだろうか……。これまでに何隻かの遣唐使船が沈没していたことは知っていた。死んでいった遣唐使達はこのような無念の思いで海に漂っていたのか。三年間無心に写経した五千本の木簡も虚しく水の泡になってしまうのか。私は運を天に任せた。次第に意識が朦朧としてきた……。

 

気がつくと、布団の上に寝ていた。小鳥の鳴き声が聞こえる。朝のようだ。見ると脇に小僧が座っている。部屋の隅には笈が置いてある。

「あっ、気がつかれましたか」と小僧が言った。

私はかすかな声で言った。

「ここは、一体……、どこでしょう」

「松江の古浦(こうら)です。高円寺という寺です」

「松江とは、出雲の……」

「そうです。今、住職を呼んできますので、暫くお待ちください」

と言って小僧は部屋を出て行った。

私は遣唐使船が松江沖まで流されたことを知って驚いた。船に乗っていた布勢清直(ふせのきよなお)送唐客使多治比廣成(たじひのひろなり)副使、判官、録事、その他大勢の遣唐使達は無事だったのだろうか。助かったのは自分だけなのだろうかと思った。船が沈没する時、木箱は海の藻屑と消えてしまったようだ。しかし、自分はこうして命拾いし、笈も無事であることを御仏に感謝した。

暫くして住職が現れた。

「お気づきになられましたか。私はこの寺の住職、真曉(しんぎょう)と申します。あなたのような御高僧が当寺に来られるとは、誠に名誉なことでございます。これも仏様のお導きかと存じます」

 と言って、私が高円寺に担ぎ込まれるまでの経緯を話してくれた。

     和尚によると、昨日の夕刻、私が古浦の海岸で倒れているのを漁師が見つけた。その時の私のいでたちは、坊主頭で、法衣を身にまとい、首に長い数珠を二重に巻きつけ、笈が身体に縛りつけてあり、笈には墨で経文が書いてあったそうだ。漁師は、私が難破した船に乗っていた御坊様に違いないと思い、急いで仲間を呼んで高円寺に運び込んだという。

「あなた様は、もしや唐に行かれた留学僧様ではありませんか。漁師が言うには、遭難していた船が、以前、稲佐の浜沖で漂流していた遣唐使船と形がよく似ていたと申しますので」

「左様ですか。いかにも、私は遣唐使船留学僧の道勤と申す者です」

と身分を明かした。和尚は大変喜び、是非とも当寺に長く逗留し、唐や密教の話を聞かせて欲しいと望んだ。

五日ほど高円寺でお世話になり、すっかり身体が回復した。気がつくと二月十一日であった。一刻も早く帰朝の報告をしなければならないと思い、和尚にお暇乞いを申し出た。和尚は二月の山越えは難儀であるから春まで待ってから出立されてはと勧めたが、私の決意が固いことを知り、快く承知してくれた。

松江から出雲街道を五十三里歩けば六日で姫路に着く。姫路からは瀬戸内海を船で横切れば大阪(すみ)吉津(のえつ)である。そこから奈良の都は目と鼻の先だ。

旅立ちに当たり、和尚から様々なものを頂戴した。綿入りの着物、草鞋、薬、糧として炒り豆、干し栗、干し芋、焼き米、さらに焚火を起こすための火打石であった。

二月十三日早朝 名残惜しむ和尚に別れを告げた。

二月十四日 米子を通り、溝口で宿泊。

 二月十五日 ()()、坂井原を通り、四十曲峠の新庄で宿泊。

 二月十六日 薬師堂を通り、美甘(みかも)で宿泊。

 二月十七日の早朝、宿の主人が曇り空を見上げて言った。

「今日は吹雪になるかも知れません。ご出立を明日に延ばされては如何でしょう」

「いや、首切り峠とか言う峠を越えれば、あとは下り坂です。坂を下れば勝山です。一時も早く都に着きたいので、ご忠告はありがたいのですが、出発しようと思います」

「首切り峠は街道一の難所です。寒さで死ぬ人も出るくらいです。無理にお引止めは致しませんが、やはり今日はご出立をお止めになったほうが宜しいかと思いますが」

「まさか、凍え死ぬなんて言うことはないでしょう。万が一の時は焚火を焚いてしのぎますし」

 と言って、宿を後にした。

曇天の下、山道を半日歩き、首切り坂を登り、もう少しで首切り峠に着くところで、足を捻挫してしまった。笈を背負っているから歩くのが難儀で、枝を杖代わりとし、足をかばうようにして歩いた。夕暮れまでには勝山に着くはずであったが、思わぬ時間がかかってしまい、申の刻(午後四時頃)にやっと子安観音堂に着いた。あと一刻(二時間)も歩けば勝山にたどり着くはずと思い、足を引きずりながら山道を歩いていると、運悪く雪が降ってきた。風も出てきた。避難するところを探さなければと思っている内に吹雪になり、視界が遮られてきた。瞬く間に道が雪で覆われ、ブナの樹林が冬景色の水墨画のように真っ白になり、ついには道が完全に消えてしまった。焦った。刃物のような風が容赦なく顔を突き刺す。全身雪だるまになった。身体が氷のように冷たい。暫くして、前方にぼんやりと洞穴のようなものが見えた。足を引きずりながら洞窟を目指した。

洞窟は崩れた石室のようで、間口が一間、奥行きが二間ぐらいあり、吹雪をどうにかしのぐことが出来た。奥まで入り、笈から仏像を取り出して、壁の窪みに安置した。捻挫した足首をかばうようにしてあぐらをかいて座り、仏像を見上げた。薄暗くなってはいたものの、御仏の慈愛の眼差しを感じた。有難い事だ。海で遭難しても、吹雪に見舞われても助かったのは、御仏のお陰と思い、合掌した。

身体が震えて止まらなくなった。宿の主人が言っていたように、暖を取らなくては凍死するかも知れない。焚火を焚こうと思い、洞窟の吹き溜まりにある枯れ枝や葉っぱを拾って手元に集めた。火打石を打って火口に火をつけた。しかし、付木に火がつかない。湿っているのだ。付木に代わるものを考えた。枝や木の葉ではいけない。湿っている。木簡を包んでいた油紙に気がついた。笈から油紙をとりだし、火口から火を移そうとしたが、油紙も湿気を吸収しているせいか火がつかない。体が冷えてくる。何か乾いた布か紙切れがないか……。笈の中に入っている曼荼羅に気がついた。金剛界と胎蔵界との二幅の曼荼羅である。しかし、曼荼羅を焚きつけにするわけにはいかない。手がかじかんできた。今、火を起こさなければ火打石をうまく打つことが出来なくなるのではないかと思った。吐く息がすぐ霜になり、吐く度に口の周りに髭のようにこびりついた。指で触るとザラザラしている。こんな寒さは経験したことがなかった。指が麻痺してきた。麻痺が指から手、手から腕、腕から身体へと伝わっていくのだろうか。まだ指の感覚があるうちに火打石を打って焚火をしなければ凍死してしまう。しかし、こんなところで凍死するなどということは考えられない。今まで御仏の御加護があった。だから、また御仏が助けて下さると気を取り直し、まずは空腹を満たそうと思って手を笈の中に入れ、干し芋の袋を摘まもうとしたが、指が他人の指のようで袋を掴んだ感覚がない。両手を突っ込んで袋を挟んで取り出した。手を懐に入れて温めて、袋を開け、やっと食べることが出来た。これではいけないと思い、身体を動かした。しかし、いつまでも身体を動かしているわけにはいかない。身体がこわばってきて、思うように動かなくなった。次第に眠くなり、うとうとしてきた。うとうとして、ハッと気がついて目を覚まし、またうとうとして、目を覚ました。これは危ない。この寒さで眠ってしまったら凍死してしまう。死んではいけない。木簡を都に持ち帰る使命がある。しかし、気がつくと眠っていた。外では吹雪が渦巻いている。曼荼羅を付木の代わりにするしかないのか……。しかし、たとえ曼荼羅に火がついても、二幅ともすぐに燃えてしまう。燃え尽きたら再び凍死の恐怖に襲われる。そうなると、曼荼羅のほかに燃やすものを探さなければならない。外は吹雪でとても柴を取りに出るなどということはできない。たとえ柴を取って来ても濡れている。笈は雪で湿っていて燃えない。笈の中には木簡がある……。恐れ多いことだが、木簡を燃やすしかないのか。そんな事をしていいのだろうか。

私は迷った。自分が凍死しても木簡や曼荼羅は残る。いつかは旅人がこの洞窟に入り、木簡に気がつくであろう。しかし、私が死んでしまったら、不空和尚から学んだことは誰が伝えるのか。恵果から得た教えは誰が伝えるのか。誰が今度派遣される留学僧を恵果に紹介するというのか。長安で見聞したことを誰が伝えるのか。私が生きることと、死んで木簡を残すこととどちらが世の為になるのだ。旅人が木簡に気がつかなければ、木簡は朽ち果ててしまう。幸い、笈に入っている三部経と『般若心経』はほぼ完璧に暗唱できる。筆があれば全部書き下ろすことが出来る。木簡を燃やして、手ぶらで都に帰れば、世間は私のことを「暖をとるため経典を燃やした」と軽蔑するだろう。しかし、死んでは何もならない。留学僧の使命は経典を持ち帰ることだけではない。そんなことは誰にでもできる。私には伝えるべきことを伝える使命がある。

ここまで考えて、迷いが吹っ切れた。金剛界曼荼羅を手に取った。押し頂いて拝み、端を揉みほぐし、火口の火を曼荼羅に移した。曼荼羅が燃え出した。すかさず、もう一幅の胎蔵界曼荼羅の端を火にかざした。火は勢いよく燃え移り、二幅の曼荼羅が燃え出した。枯れ枝や葉っぱや油紙を次々と火にくべた。笈を砕いて、これも燃やした。

燃えていく曼荼羅を見た。四〇五尊の釈迦像が焼かれていく。大日如来の御尊体も焼かれていく。ああ、何という勿体ないことをするのだ。如来は静かに、無言で、燃えながら、暖かい火を放っている。

暖かくなってきた。生きた心地になった。しかし、ほっとするのも束の間、暫くすると火が消えかかってきた。体が冷えてきた。炎が消えて炭火がぼんやりと周りを照らしている。その鈍い光も次第に薄れていく。外は暗闇で吹雪が激しい。まだ夜明けまで相当時間がありそうだ。残り火のあるうちに木簡に火をつけなければと思った。

木簡の束を取った。『般若心経』だ。これは最後に燃やそうと思って脇に置き、別の束を取った。手に取ったのは密教の根本が書いてある『金剛頂経』の束だった。これは到底燃やせないと思った。次は『蘇悉地経』であった。いくら暗唱できるとはいえ、いざとなると、どれもこれも燃やすには忍びなかった。このまま燃やさずに一夜を明かせないかと思った。次第に弱まっていく燃えかすを見つめた。

外から激しく吹雪が襲ってきて、残り火が消えていき、薄暗くなっていった。吹雪の中に裸で投げ出されたように感じた。寒い。冷たい。膝を抱えて丸くうずくまった。身体が震えだし、吐く息が霜になった。唾を飛ばすとすぐ凍った。なんという寒さだ。またうとうとして、ハッと目が覚めた。だめだ、眠ってしまったら凍死する。

私は決意した。

一番手元の木簡の束を取った。『大日教』であった。閉じ紐をほどき、一本の木簡に火をつけた。周りが明るくなり、手元や顔が暖かくなった。自分は罰当たりだ、と責めながら火が絶えないように木簡を次々と読経し、燃やした。『蘇悉地経』も、『金剛頂経』も大声で読経し、泣く思いで燃やした。

どれぐらいたったか、ついに最後の束になってしまった。洞窟の外は、勢力は衰えたものの依然と吹雪であった。

最後の束は『般若心経』だった。経文二六二文字が、三十本ぐらいの木簡に書かれている。これが最後の木簡だと思うと、三年間の修業がここに凝縮されているように思えた。

これも燃やしてしまうのか……、と一瞬迷ったが、洞窟に吹雪が容赦なく入り込んでくる。今、火にくべなければ凍え死んでしまう。

 火の勢いが衰えてきた。私は大きな声で『般若心経』の出だしの経文を誦み上げた。

 

魔訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)

 

それから、火にくべた。静かに燃えていく。二本目の木簡の経文も高らかに誦えた。

 

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)

 

経文の文字に火が移る。木簡は燃えるのを嫌がるが如く、苦しむが如く、悲しむが如く、反り上がり、抵抗し、炎を出し、黒く焦げ、煙を出して、白い灰になっていく。

次の木簡を取った。震える声で読経した。

 

行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみたじ)

 

一本、また一本、と燃やしていくうちに、とうとう最後の四本になってしまった。この四本には、『般若心経』締めくくりとしての呪文が書かれている。唇が緊張し、喉が乾き、身体が震えた。目を閉じ、心を込め、あらん限りの声で呪文を唱えた。

 

掲諦掲諦(ぎゃーてーぎゃーてー) ()()(ぎゃー)(てー) 波羅僧掲諦(はらそぎゃーてい) ()()()()()

 

呪文が洞窟に反響した。木簡に火が移り、炎がめらめらと経文を舐めていく。じっと見つめた。胸が痛む。ああ、最後の木簡が燃えていく、燃えていく。一体この三年間は何だったのだ。『般若心経』の奥義も分からないまま、こうして木簡を全て灰に帰してしまうとは……。 

 最後の炎がゆらゆら揺れながら次第に小さくなりそれにつれて辺りもだんだんと暗くなり、ついに……ほっ、と消えてしまった。寂しくなった。悲しくなった。悔しかった。今まで片時も離さなかった経文が全て消えてしまった。三年間の苦労が全て灰になってしまった。

 静かだ。洞窟の外を見た。いつの間にか吹雪は止み、東の空が明るくなっている。朝日が紺色の稜線に顔を出し、光が洞窟に向かって射し込んできた。洞窟の奥に安置してある仏像を見た。その瞬間、仏像が金色に光った。朝日が仏像を照らしたのだ。私は思わず居住まいを正し、仏像に手を合わせて呪文を唱えた。

 

掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶

 

 唱え終わると深い静けさを感じた。全ての経文が灰と消えたように、全ての経文が頭から遠のいていくように感じた。頭の中にぎっしり詰まっていたものがしだいに消えていき、頭が空になっていくようだ。一体この気持ちは何なんだろう……。しばらく茫然とたたずんだ。たたずんでいるうちにそれまで私をがんじがらめにしていた経文から解き放されていくような気持ちになった。恵果が言っていた書の心、「気ままに書け」という言葉を思い出した。自分は経文に縛られていて、経文から一歩も外に出ていないことに気がついた。経文を真に読み取るには、経文から離れなければならないのだ。不空和尚が言っていた「経文を読もうとするなら、経文を読んではならない」とはこの事だったのか。経文を読もうと意気込めば意気込むほど経文に縛られるのだ。経文を意気込んで読んではいけないのだ。肩の力を抜いて「気ままに」読めということだ。なんという単純なことではないか。こんな簡単なことが分からないまま経文を何度も何度も、金科玉条のようにして、一生懸命唱えてきたのだ。

木簡が燃え、無と化したが、私の心に今までなかったものが生じた。

 朝日が洞窟の奥まで照らしてきた。いよいよ出発だ。私は仏像を懐にいれ、文字通り身軽になって洞窟を出た。

                        完

            

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