2014年2月10日月曜日

酔い止め薬

稲川史郎  22 大学院生(中国史専攻)  

周聖元   45 湖南省洪湖 水上生活者

周小麗   40 周の妻

周志軍   12  周の次男 

杉山加奈  31 旅行業者

洪湖市職員 38 

 

○日本の観光旅行会社

   史郎がカウンター越しに杉山と話している。

史郎「この紹介状を見せればいいのですね。

洪湖市の役所で」

杉山「はい。観光課の職員に見せてください。

水上生活者の人と連絡は取れてますので」

史郎「その方のお名前はなんと言いますか」

杉山「紹介状に書いてありますが、確か……」

史郎「ああ、ここに書いてある。えっと、周

聖元さんですね」

杉山「そうです。その方がいろいろ教えてく

ださることになっています」

史郎「分かりました。ありがとう」

杉山「お気をつけてお出かけください。帰られたら是非お立ち寄りください」

   史郎は会釈をして立ち去る。

 

○中部国際空港

   飛行機が飛び立っている。

 

○飛行機の中

   史郎が座席に座っている。

   「あと十分ほどで武漢国際空港に着陸

します」というアナウンス。

     

○中国湖北省・洪湖

   水上生活者の舟が何隻が浮かんでいる。

   ST「中国・湖北省・洪湖」

 

○洪湖市役所・玄関

   史郎が役所の玄関を見上げている。

 玄関の上部に中国語で書かれた看板。

ST「「洪湖市役所」

史郎、中に入る。

 

○洪湖市役所・カウンター

   史郎が職員と話している。

史郎「日本から来ました稲川史郎という者

 です。日本の観光業者からの紹介状です」

   職員は紹介状を受け取り、読む。

職員「分かりました。洪湖の見学の方ですね」

史郎「はい、それで、周聖元という方から何か言伝はないでしょうか」

職員「言伝? 少々お待ちください」

   職員は奥の部屋に行く。

   史郎、待っている。

職員が現れる。

職員「ありました。明日の午前十時に第一桟橋に来て下さいとのことです。それから、もうひとつ。酔い止め薬を持ってきて欲しいそうです」

史郎「分かりました」

 

○洪湖、第一桟橋・午前

桟橋で史郎が待っている。

腕時計を見ると十時。(アップ)

十畳ほどの大きさの屋根付き筏型の舟が桟橋に次第に近づく。

周聖元が櫓で舟を漕いでいる。

舟の端から端まで洗濯物が干してある。

史郎「周聖元さんですか」

周「ああ、お待たせしました。稲川史郎さん

ですね」

史郎「はい、お世話になります」

舟が桟橋に横付けになる。

周は史郎の手を取って船に乗せる。

 

○舟内

奥から周小麗と周志軍が出てきて挨拶する。

周「日本から来られた稲川さんだよ。稲川さ

ん、こちらが妻の小麗で、この子は次男の

志軍です。今、長男は働きに出てますので

いませんが」

   史郎、挨拶する。

小麗と志軍は奥の部屋に下がる。

   周と史郎が座卓を挟んで座る。

   小麗、お茶を持ってきて座卓の上に置

く。

周、お茶を史郎に勧める。

史郎、お茶を飲む。

周「それで、稲川さん、赤壁の戦いの研究を

してなさるとか」

史郎「はい、修士論文で呉の水軍をテーマにしてますので」

周「そうですか。わかる範囲で答えますのでなんなりとご質問して下さい」

史郎「はい、洪湖で水上生活している方は呉の水軍の末裔だと聞きましたが、そうですか」

周「そうです。皆、末裔です。赤壁の戦いで総大将だった周瑜はこの湖で水軍の訓練を行ったのです」

史郎「周さんは周瑜のご子孫でしょうか」

周「いや、たまたま同じ周という名前ですが、不確かでね。そうだと嬉しいのだが」

史郎「孫権の水軍はどれぐらいの規模でしたか」

周「約二万の水軍ですね」

史郎「曹操の水軍は」

周「十五万から二十万です」

史郎「そうすると、孫権水軍は約十分の一の戦力で勝ったわけですか」

周「そうです。ご存知と思いますが、例の火攻めで」

史郎「呉の水軍はここから川を下って赤壁に行ったのですか」

周「そうです。明日案内してあげましょう」

史郎「ありがとうございます。ところで、周さんのご一家は陸地では生活されないんですか」

周「生まれてから、ずっと水上生活です。私の父も子供たちも」

史郎「食べ物や日常品はどうするんですか」

周「ああ、水上市場ってのがありましてね。これもまた舟なんだが。その舟に行けば、野菜や肉、服やら生活するのに必要なものは何でも売っているんです」

史郎「でも、料理はどうするんですか」

周「ああ、舟の上でコンロを使うんです」

それに、気がつかれたたと思いますが、洗

濯も船の上ですよ」

史郎「でも、お子さんの学校は陸地でしょう」

周「いやいや、子供は陸地に上がる用事はな

いんです。小学校だって水上学校だし」

   周は遠くに見える一教室分の大きさの

舟を指差す。

史郎、舟を見る。

周「それから、医者も水上生活者でね」

史郎「それじゃ、お子さんはずっと水上生活ですか」

周「そう。生まれてからずっとね」

史郎「舟が揺れた時って、船酔いしませんか」

周「全然しません。生活の地盤が生まれつき

舟だから、揺れるのは慣れっこで酔うなん

て考えられないです」

史郎「では、中学校も水上ですか」

周「中学は陸地です。だから、子供は中学校の入学式の時に始めて陸地にあがるんですよ」

史郎「へーえ、驚きました」

周「あなたには驚きかもしれませんが、ここ

ではごく普通のことですよ」

   舟の外に干してある洗濯物が風に吹かれてパタパタ揺れ出す。

   船も搖れる。

史郎「風が出てきたようですね」

周「そうそう、それで思い出しました。稲川さん、あなた酔い止め薬を持ってきましたか」

史郎「ええ、船酔いするといけないから、念のため舟に乗る前に薬を飲みました。だから、大丈夫です」

周「薬、まだ残ってませんか」

史郎「ああ、新品の箱を開けたので薬はまだいっぱいありますが」

周「それは良かった」

史郎「良かったって?」

周「こんなこと言って厚かましいですが、その余っている薬を少々わけていただけませんか」

史郎「いいですよ」

   史郎、疑問に思う仕草をしながらバックパックから薬の箱を取り出す。

周「すみませんねぇ」

史郎「いいえ」

周「どういうわけか水上市場にも陸の薬屋に

も酔い止め薬が品切れなんですよ。困って

たんです」

史郎「そうですか、じゃあ、半分差し上げま

しょう」

   史郎、箱からカプセルの薬を五、六個

取り出して周に渡す。

周「ありがとう」

史郎「質問していいですか」

周「勿論」

史郎「先ほど風が出て船が揺れようが誰も酔

う者はいないっておっしゃいましたが。酔い止め薬はなぜ必要なんですか」

周「ああ、あなたが疑問に思うのは当然です

が。それはね、笑わんでくださいよ」

史郎「はあ」

周「明日、九月一日は入学式なんですよ」

史郎「入学式って?」

周「先ほど顔を出した次男ですよ。明日あい

つは洪湖中学校の入学式に出るんですよ。

だから酔い止め薬がいるんです」

史郎「ええっ、どういうことですか」

周「三年前、兄が中学の入学式に出たとき

にね、生まれて始めて陸に上がったので、

岡酔いしちまったんですよ」

               終

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