2015年12月1日火曜日

 最初で最後の接吻


 

ナンシー・ブラウン 23 主婦

トーマス・ブラウン 30 炭坑夫 

ローザ       50 救貧院婦長

アグネス      47 救貧院職員

ジェーン      30 ナンシーの隣人

スリの少年

教区医師

 

 

○炭鉱労働者長屋・ブラウン宅・夜

   ST イギリス。一八三五年

   ナンシーとトムが夕食を食べている。部屋には薄暗いランプ。

トーマス「今日は命拾いしたよ、第4炭坑が爆発してね。二十一人が亡くなったよ。中には子供が五人いてね。恐ろしいことだ。明日は我が身かと思うとね」

ナンシー「そんな、縁起でもない事言わないで」

トーマス「いや、ひと事じゃないからな。万が一のために言っておくが、俺が死んだら、わかってるな、ロンドンの俺の妹を尋ねるんだぞ。パウエル街のブランローさんだ」

ナンシー「わかってるわよ。紙に書いてタンスにしまってあるから。もう、そんな話やめてよ」

トーマス「そうだな。で、どうだ、ベービーは? 動いているか」

ナンシー「ええ、腹をポンポン蹴って、とても元気いいの。きっと男の子よ」

トーマス「そうか、元気な子を産んでくれよ。身体大事にしろよ」

ナンシー「あなた、名前考えた?」

トーマス「ああ、オリバーってのはどうだ」

ナンシー「オリバー? いい名前ね」

トーマス「女の子の名前は、考え中だな」

ナンシー「男の子だから、考えなくていいわよ」

トーマス「女の子なら、その時考えようか」

ナンシー「ええ」

 

○長屋・ブラウン宅・玄関・朝

   トムがナンシーに話している

トーマス「そうそう、今日は、合同葬儀だった。炭坑、今日は休みだ。葬式終わったら昼には帰るよ」

ナンシー「じゃ、昼御飯は家ね」

トーマス「ああ」

 

○道路

   トーマスが歩いている。長屋が見えてくる。

暴走する馬車が走って来る。御者が馬を制しきれない。通行人を次つぎ跳ね飛ばして暴走している。

トーマスは馬車を避けるが、馬車はトーマスをはねて、走り去る。

トーマス、血だらけで道路に倒れる。瀕死の重傷。

人が集まる。

群衆の中に隣人のジェーンがいる。

ジェーン「まあ、トーマス!」

   ジェーン、ブラウン宅に走る。

 

○長屋・ブラウン宅・玄関

   ジェーンが玄関の戸を激しく叩く。

ジェーン「ナンシー、ナンシー!」

   ナンシー、玄関の戸を開ける。

ナンシー「ジェーン。どうしたの」

ジェーン「大変よ! ご主人、馬車にはね

られて」

ナンシー「ええっ?」

 

○道路

   ナンシーとジェーン道路を走る。人垣が見える。

  

○道路

   ナンシー、群衆をかき分けてトーマスのところへ。

ナンシー「あなた! あなた!」

トーマス「ナンシー」

ナンシー「あなた!」

トーマス「元気な……子を……産んでくれ……」

   トーマス、息を引き取る。

ナンシー、泣き崩れる。

 

○乗り合い馬車・停車場

   ナンシー、窓口で切符を買っている。浮浪者風の少年がナンシーを見ている

ナンシー「ロンドンまで一枚」

ナンシー、切符を受け取り、財布を懐にしまってカバンを持って歩き出す。少年がぶつかってくる。

ナンシー、倒れたまま起き上がれない。

少年、カバンを盗って逃げる。

ナンシー「誰か! 泥棒!」

周りに誰もいない。

停車場職員、窓口から出てきてナンシーを助け起こし、窓口に戻る。

ナンシー、起き上がってカバンがない事に気が付く。

懐に手を入れると財布もない。

呆然と立ち尽くす

 

○道路

ナンシー、身重の身体を手で抱えるようにして歩いている。

道路標識に「ロンドンまで七〇キロ」と書いてある

 

○農家の玄関先

   ナンシー、農夫に食べ物を恵んでもらっている。

農夫「さあ、これだけよ。早く立ち去ってよ」

 

○道路脇・夜

   ナンシー、枯れ草を集めて横になり、両手を腹に当てながら野宿

 

○畑・夜

   ナンシー、畑に入り、人参を抜き取り

   手で泥をぬぐい、かじりつく。涙が流れる。

 

○ロンドン市内の道路・夜

   ST ロンドン

   馬車や人が行き交う。

疲れ切ったナンシー。服はボロボロ、髪はぼさぼさで、ふらふらと歩いている。

雨が降ってくる。風が強くなる。

ナンシー、急に産気づき、うずくまる。あたりを見回す。

ガス灯に照らされた「教区救貧院」と書いた看板のある建物に気がつく。

起き上がって救貧院に向かう。

 

○救貧院・玄関・夜

   激しい風雨。

ナンシー、片手で腹を抱え、もう一方の手で玄関の扉を開けようとするが開かない。

脇の呼び鈴の紐に気がつき、三、四回引いて倒れる。

 

○救貧院の中の部屋

   婦長のローザと職員のアグネスがテーブルをはさんで座っている。二人とも繕い物をしている。

ローザ「雨がひどくなってきたねえ」

アグネス「ええ、こんな夜は、物騒だから玄関の扉、閉めておきました」

部屋の隅にある呼び鈴が鳴る

ローザ「なんだろうね、こんな夜中に」

アグネス「ええ」

ローザ「済まないけど、見てきておくれ」

アグネス「はい」

   アグネス、ランプに火を点けて、部屋を出る。

 

○救貧院・玄関・夜

   アグネスが玄関を開けてランプをかざす。

雨に打たれて、ナンシーが倒れている。

アグネス「まあ!」

   アグネス、ランプを置いて、ナンシーを抱き起こす。

ナンシー「赤ちゃん、赤ちゃんが……」

アグネス「ええっ?」

 

○救貧院・部屋

   アグネスと婦長、ナンシーをベッドに寝かせる。

ローザ「教区医さん、呼んできておくれ」

アグネス「はい」

   アグネス、部屋を飛び出す

 

○救貧院・部屋

   教区医が立ち合い、婦長とアグネスが見守る中ナンシー、出産する。

赤ん坊の泣き声。

婦長「よく頑張ったね、男の子だよ」

ナンシー「死ぬ前に赤ちゃん、抱きたい」

婦長「何言ってるの、死ぬなんて。しっかりおしよ」

   婦長、布にくるんだ赤ん坊をナンシーの枕元に置く。

ナンシー、赤ん坊の頬を手で撫でる。

医者(声を落として)「母親は身体が持たないかも……」

ローザ(小声で)「ええっ」

アグネス「……」

教区医(小声で)「瀕死の状態なのに、よく産んだ。奇跡だよ。残念ながら母親は……」

婦長ナンシーの側に行き、

婦長「お前さん、死んじゃだめだよ。この子、何て名前にするの」

ナンシー「オリバー…… オリバー」

婦長「オリバーね、分ったわ、で、あなたの身内は?」

ナンシー「ポケット、ポケットに」

婦長、壁にかけてあるナンシーの服のポケットの中を探す。

ナンシー、オリバーの頬に接吻して、

ナンシー「あなた……元気な……男の子よ」

   ナンシー、息を引き取る。
 
                        終 

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