2009年10月17日土曜日

百日紅(さるすべり)のそばに

「もしもし、そこで何してるんですか」
反射的に隆司は遺灰の入った袋を身体の後ろに隠した。
「今何を隠したんですか。白い粉をまいてたようでしたが」
「いえ、その……何でもないんです」
「何でもないのに、どうして柵の中に入ってるんですか。それから、その足元の石は何ですか」
隆司は百日紅の木を囲っている柵の中に立っていた。足元には弁当箱ぐらいの大きさの緑色の石が地面に置いてある。
「いえ、あの……この百日紅があまり見事なので、つい触りたくなって……」
「そんな見え透いた嘘を言って。何を隠してるんですか」
植物園の職員は柵をまたいで中に入ってきた。五十五歳ぐらいで、カーキ色の作業服を着ている。
隆司は、どうしようもなかった。観念して隠していた袋を渡した。職員は中を見て言った。
「この白い粉は何ですか」
職員は袋の中に手を入れて、遺灰を指でつまみ、目元に持っていってじっと見つめた。
「これは、もしかして……遺灰じゃないですか」
「はあ、実は……その……」
「あなた、遺灰をまいていたんですか」
「はあ、実は……」
「ここは東山植物園ですよ。こんなところで遺灰をまいてもらっては困りますね。海や川ではあるまいし。それからその石は何ですか」
隆司は石を拾って渡した。石には小さな文字で「2007. 7. 25 後藤フミ子 永眠 八十八歳」  
と、墨で書いてあった。
「何ですか、これは。小さいけど墓石じゃないですか。あなたね、東山植物園をお宅の墓にするつもりですか。非常識ですよ」
「はあ、済みません。それは分かっていますが……」
「分かっていて、どうして遺灰をまくんですか」
「いえ、その、死んだ母の遺言で……」
「遺言?」
「はあ」
「ちょっと、あなた、公園事務所まで来て下さい。困った人だ。袋と石はお預かりしますよ」
 隆司は園内専用車に乗せられた。
 植物園の閉園時間を告げるアナウンスが聞こえた。
「本日は東山動植物園にお越し下さいましてありがとうございました。本日はこれにて閉園させていただきます。またのお越しをお待ちしております」
アナウンスが終わると「蛍の光」がゆるやかに園内に流れ出した。
これより二十分ぐらい前、隆司は合掌造りの縁側に腰かけて、庭にある百日紅の木を見ていた。四時三十分ごろに職員が来て「今日はこれで終わりです。雨戸を閉めますよ」と言って、合掌造りの雨戸を大きな音を立てて閉めて帰って行った。それからあたりが静まり返り、人っ子一人いなくてしまった。隆司は今がチャンスだと思って百日紅を囲ってある柵を乗り越え、木の根元の周りに散骨し始めたのだった。
事務所に着くと職員は植物園の園長に電話をした。事務所は入口近くに応接セットがあり、奥の窓際に机が二つ並んでいた。そのうちの一つの机にはノートパソコンが置いてあった。
 しばらくして園長が現れた。
「どうしたんですか、西山さん」
「はあ、この男です。今電話で話した人は。合掌造りの庭の百日紅に遺灰をまいてたんです。これが遺灰の袋と墓石です」
西山はテーブルの上に袋と石を置いた。
隆司は園長から顔を背け、帽子のツバを深く下に引いて顔を隠し、うなだれていた。
「あなた、こちら、園長ですよ。帽子を取って下さい」
隆司は下を向いたまま、帽子を取らなかった。
「あなた、失礼でしょ、帽子を取ったらどうですか」
隆司は、しぶしぶ帽子を脱いだ。
園長は隆司の顔を見てびっくりした。
「先生、後藤先生じゃないですか。いやぁ、驚いた。どうしたんですか、一体」
「えっ、園長は、この人をご存知ですか」
「ああ、高校の時の英語の先生だよ。頑固先生で、よく叱られたよ」
「そうですか、園長の先生でしたか」
西山は隆司の方を見て言った。
「あの……そうとは知らず、どうも失礼しました。でも遺灰は……いや、それじゃあ、私はこれで失礼します」
「あっ、西山さん、別に席をはずさなくていいよ。来月のドライフラワーの案内、あれ、もう済みました?」
「いえ、もうすぐです」
 西山は奥の机に行って、ノートパソコンに向かって座った。
「先生、お久しぶりです。全然変わっていませんね。お元気そうで。どうぞ」
園長はソファを示した。
「いや、もう白髪のじじいだよ。君はもう何歳になるね?」
 隆司はソファに腰を下ろし、園長も対面の椅子に座った。
「もう五十です。確か先生と年が十歳違うはずですが」
「そう、わたしはもう六十だよ。来年三月で定年だ」
「でも、先生、お顔はちっとも変わっていませんね。卒業して……もう三十年以上経ちますが。早いものです。で、先生、今日は一体どうしたんですか」
「いや、いや、君には全く面目ない。君が園長ということは知っていたが、君に頼むと返って迷惑になると思って、黙って自分でやろうとしてね、見つかってしまったんだよ」
「ご自分でやるって、遺灰をまくことですか」
「うん、お袋の遺灰だけど、遺言でね。どうしても合掌造りのそばの百日紅にまいてくれと言い残して逝ったんだよ」
「遺言ですか。でも、どうして百日紅なんでしょう」
「話せば長くなるが……。お袋は、今年八十八歳だったんだが、生まれてからずっと白川村に住んでたんだよ。合掌造りの白川村にね。ところが、三年前、夫を亡くしてね」
「夫って、先生のお父さんのことですね」
「そう。親父が三年前に亡くなってね。それで、お袋は一人暮らしになったんだ。でも、もう、年取ってるし、一人暮らしは不自由だから、名古屋に来て、わたしの家族と一緒に住むように勧めたんだよ。マンション暮らしだけどね。でも、お袋は嫌がってね。まあ、その気持ち、分からんでもないがね」
「そりゃ、そうですよ。合掌造りからマンションに変わるのでは全然違いますから」
「その通りなんがね。一年ぐらい前に、畳の縁につまづいて転んでね、足の骨を折ってしまったんだ。それで、その機会に名古屋の病院に入院させたんだよ。」
隆司は外を見た。雨が降ってきて、北側の窓から雨が降り込み、木の匂いのする湿っぽい空気が事務室に入り込んできた。西山は立ち上がって、北側の窓を全部閉めた。木々が風雨で揺れだした。
「えっと、どこまで話したかな」
「お母さんが、名古屋の病院に入院されて……」
「そう、それで、退院してから、名古屋に一緒に住むことになってね。でも、お袋は名古屋の生活になじまなくて……そりゃ、九十年近く住んだ田舎からこんな都会に出てきて住むなんてね、かわいそうとは思ったんだけど、しょうがないからね」
「私も、母が富山で、一人暮らしなんですよ」
「そうか、ゆくゆくは考えないとね。それでね、お袋は足が治って、歩けるようになってからは、白川村に帰りたい、合掌造りに住みたいとか、マンションは嫌だとか言い出すんだ。それで、困ってたら、女房が、東山公園に合掌造りがあることに気が付いてね、一度お袋を連れて来たんだよ。お袋、感激してね。涙を流して喜んだよ。本当に涙を流してだよ。よほど白川村に帰りたかったんだ。わたしもお袋を見ていて涙が出てね。ふる里って、いや、合掌造りって、お袋には命みたいなものだったんだよ。よほど合掌造りが懐かしかったんだろう」
 隆司の目が涙で潤んだ。園長は黙って聞いていた。
「でもね、お袋の望むように白川村で一人暮らしはさせられないからね。どうしようもないんだよ。核家族の悲劇だよ。せめて東山公園の合掌造りにお袋を連れて来るのが精一杯の親孝行だと思ってね。親孝行なんて、大げさだけど……。それから、毎月一回か、二回はここの合掌造りに来ていたんだ」
「そうでしたか。声をかけて下されば、すぐ来ましたのに……」
「君も園長で忙しいだろうしね。それでね、お袋は、ここの合掌造りが大変気に入ってね。来ると必ず顔がおだやかになるんだよ。観音様のような顔になるんだ。マンションにいる時は、何か構えていると言うか、緊張していると言うか、般若の顔と言っては言い過ぎかもしれないがね、きつい顔をしてたんだ。それに、ここは景色もいい。木が多くて、空気もいいし。鳥も鳴いてるし。合掌造りと、この景色全体がお袋の心をほぐしたんだろうなぁ……そう、英語のフィール アット ホームっていうやつだよ。フィール アット ホームだよ」
「ええ」
「ところがね、半年ぐらい前から、だんだんボケてきて、植物園の合掌造りの家が自分の家だと思うようになってね。区別がつかなくなってしまったんだよ。実は、白川村の家の庭にも同じように大きな百日紅の木があってね。お袋が親父と結婚した時に、記念に百日紅の苗を植えたんだ。お袋は二十歳で嫁いで来たから、もう七十年近くその百日紅と共に暮らしてきたことになるんだ。で、お袋はここの植物園の合掌造りのそばの百日紅を見て……あっ、このまま話し込んでいいのかい。園長の仕事って忙しいんだろ」
「いいんですよ。今日の仕事は終わりましたから。会議もないし、どうぞ続けて下さい」
「そうか、で、お袋はここの百日紅の木を見てね、あれは父ちゃんと一緒に植えた木だ、と言うんだよ。お袋はね、親父のことを父ちゃん、父ちゃん、と言っていてね。で、お袋は、わしはこの百日紅を見ながらよく父ちゃんと一緒に縁側でお茶を飲みながら話をした。この百日紅を見ると父ちゃんの顔が見える、父ちゃんの声が聞こえる、なんて言うんだ。幻覚とか言うやつかね。まあ、お袋にとっては親父と百日紅が一心同体になってしまったようでね」
園長は隆司の話を聞きながら、自分の母親のことを考えていた。今でこそ、富山で一人暮らしで、ボケもせず元気に暮らしているが、そのうち先生の母親のようにボケてしまうのかなぁ、と考えていた。
「君のお母さんも、一人暮らしだそうだが、どう、お元気かい」
「はあ……今のところ……。今、先生のお話を聞きながら、そのことを考えていたんですよ。わたしの考えていることがよく分かりまますね」
「そりゃ顔を見てれば分かるよ。長年教師をやってたから、生徒が何を考えているかぐらいすぐ分かるよ」
「そうですか、それで、一心同体のようになってしまったとかで……」
「それでね……。その、遺言だよ。お袋は、わしが死んだらあの百日紅の木に骨をまいてくれ。そうすれば、父ちゃんと一緒になれる、と言うんだ。無理もないね。ここの百日紅の木を父ちゃんと思っているからね。で、お袋は、お墓に入るのは窮屈で嫌だ、散骨にしてくれ。百日紅の木に散骨してくれと、わたしの目を見て、真剣に言うんだよ。ボケてはいるんだが、真剣なんだな。そんなわけで、先日、四十九日の法事が終わってね、今日、遺灰を持って来たんだ……。ま、そういうわけだよ。長いこと、つまらん話をよく聞いてくれた」
「いえ、全然。つまらないどころか。人ごとではないですよ……そうですか、分かりました。あの、……ご遺灰を見せてもらってもいいですか」
「ああ」
園長は遺灰の入った袋を開けて中を覗き、次に石を取り上げ、書いてある文字を読んだ。
「先生、この石は?」
「ああ、それは、墓碑というか、散骨した印の石にしようと思ってね。白川村の庭石だよ」
「この石を百日紅のそばに置くつもりだったんですね」
「まあ、そういうことだが、あまり目立つといけないから、石の下半分は地面に埋めようと思ってたんだ」
あたりが薄暗くなってきた。雨はいつの間にか止んでいた。
「実はね、遺骨をどうしようかと迷ってたんだよ。お袋が亡くなってから、ボケ老人の言う言葉だから、その通りにしなくてもいいとは思ったんだが、一方で、たとえボケてても、あの最後の頼み方は真剣そのものだったから、その通りにしなきゃいかんと思ったりもしてね。つまり、白川村の先祖代々の墓に遺骨を入れるべきか、ここの百日紅に散骨すべきか大分迷ったんだよ。で、まあ、考えがまとまらず、一部は白川村へ、残りはここへと思ったんだ」
「そうですか。しかし、先生、困りましたね。東山公園は名古屋市のもので、私有地ではありませんからねぇ……。散骨と言うのは海や川や私有地の庭なんかはいいそうですが。先生の頼みとあれば、他のことならお聞きしてもいいのですが、その、何しろ……」
「済まん、済まん、だから、君が困ると思って、黙ってまこうとしたんだよ。いや、本当に申し訳ない。教職の身でありながら、世間の常識を破るようなみっともないことをして、申し訳なかった。あちらの職員の方に見つかって、返って良かった。何しろ母はボケてたから、ボケの言うことをまともに受け取ったのがそもそも間違ってた。遺灰は全部白川村の墓に入れることにするよ……。大体、親父の骨は白川村のお墓に入ってるんだから。そこにお袋の遺灰を入れれば一緒になれるし……。一人でどうしようかと考えていると、変なことを考えるようになってね。これも年のせいかも知れん。今日は済まなかったな。それに大分時間を取ってしまって……」
 と、隆司は言ったものの、本心では諦め切れなかった。近い内にもう一度トライしてみようかとも思ったりした。しかし、これだけ園長の前で、きっぱり、もう止めると言ってしまった以上、遺灰を百日紅の木にまくことは諦めざるを得なかった。もし、こんど捕まったら、教え子の園長の顔丸つぶれになってしまうし、第一、定年を前にして、教師の恥さらしになってしまうと思った。
「先生、済みませんね。ご期待に添えなくて」
「いやいや、こちらこそ迷惑をかけた。それじゃ、これで失礼するよ」
「あっ、先生、明日からチューリップの球根を来園者に配るんです。よろしければ、持っていって下さい。大きな赤い花を咲かせます」
園長は西山に球根を持ってくるように言った。それからは、高校時代の思い出話になった。
しばらくして、西山が球根を数個入れた袋を持ってきた。園長は袋を受け取って、隆司に渡した。
「どうぞ」
「ありがとう。女房が花好きでね。喜ぶよ」
「先生、じゃあ、この袋と石をお返しします。気をつけてお帰
り下さい」
 隆司は、袋と石を受け取って、鞄を合掌造りの前のベンチに置き忘れてきたことに気がついた。
「しまった。鞄をベンチに置き忘れてきた」
「えっ、ベンチって、どこの?」
「合掌造りの前のベンチだよ。どうも、物忘れがひどくなっていかん」
園長は西山に言った。
「西山さん、先生が合掌造りのベンチに鞄を置き忘れられたそうだ、車で先生を合掌造りまで乗せていってくれないかね」
「わかりました」
 西山はコンピューターから目を離し、園長の方を見て答えた。
 隆司は西山に言った。
「どうも済みません。ご迷惑ばかりおかけして……それじゃ、澤田君、じゃなくて、園長さん、お元気で。また来るよ」
「先生もお元気で」
 隆司は先ほど乗った園内専用車に乗り、合掌造りに向かった。
「西山さんとかおっしゃいましたか。どうも済みませんねぇ」
「いえ、先生とは知らずに失礼しました」
 日がとっぷりと暮れていた。林立している樹木のシルエットが満月に照らされて揺れている。車のヘッドライトが静まり返った薄暗い公園の路を照らしていた。
「先生、実はわたしの母もフミ子と言いましてね。名前が先生のお母さんと同じなんです。フ、ミ、はカタカナで、漢字の『子』です。今年八十五歳ですよ」
「それはまた、偶然ですね」
「はあ、先ほどのお話を聞いていて、自分の母の話かと思って聞いていたんです。あの、盗み聞きして申し訳なかったんですが」
「それはかまいませんよ」
「散骨は止められるんですね」
「まあ、仕方がないですね」
 車は奥池の脇の道を進み、水車小屋を通り過ぎて、合掌造りの前に出た。
 車のエンジンを切ると、不気味な静けさが広がり、一面に虫の声が聞こえてきた。二人は車を降りて、西山が懐中電灯を照らし、先に歩き、隆司は後に続いた。合掌造りの前庭のベンチのところに来ると、鞄はベンチの上にあった。
「ありました。ありました。どうも、お世話になりました」
「良かったですね。先生、……あの……本当は、散骨したいのでは……」
「本音はね。でも……」
「それじゃ、わたしがお手伝いしますよ。真っ暗ですし、誰もいませんから、今のうちにどうぞ」
 と、西山は言って、柵の中に入り、百日紅の木の根元を懐中電灯で照らした。

                       完

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