2009年10月28日水曜日

団子鼻

 買い物から帰った君子がいち大ニュースを発表するような口調で言った。
「ちょっと、あなた、聞いた? 三階の手塚さん、離婚したんだって」
「手塚さんて、あの老人夫婦か?」
「そうよ。だからびっくりよ」
「離婚したって。ご主人はもう七十近いだろう」
「七十一歳だって。奥さんは六十八だそうよ。なんでも、このマンションは奥さんと息子さんに譲って、旦那さんは実家の青森に帰ってしまったそうよ」
「そうか。それで最近あの爺さんを見かけないのか。毎朝、俺が出勤するとき、子犬を散歩させていたが……。で、どうして離婚なんかしたんだ」
「それがね、一人息子さんが自分の子でなかったんだって」
「えっ、自分の子でないって、どうして分かったんだろう」
「そこまでは聞いてないわよ。でも七十一歳よ。よく離婚するわね……。あなただったらどうする? 離婚する?」
忠雄はドキッとした。君子はとっぴもないことを聞く。
「俺か、そんな年取ってから離婚も何もないだろう。息子さんも四十歳ぐらいになっていると言うのに。全く、不幸なことだ。で、なぜそんなことを聞くんだ。隆司は俺の子じゃないのか?」
忠雄は半分冗談で聞いた。
「何言ってるのよ。お馬鹿さんね。冗談よ。隆司はあなたの子よ。何考えてるの」
君子はくすくす笑い出した。
数ヵ月後、隆司は小学校に入学し、記念に写真屋で家族三人の写真を撮った。出来上がった写真を見て君子が言った。
「ねえ、隆司あなたそっくりね」
「そりゃ、そうだろう。親子だからな」
と言ったものの、忠雄は息子がそんなに似ているとは思っていなかった。自分で自分の顔が見えないから端から見ると、よく似て見えるのだろう、ぐらいにしか考えていなかった。
五月五日のこどもの日、君子の実家に三人で出かけた。夕食のとき義母が
「隆司ちゃんは、お父さんによぉく似ているね。目元なんかそっくりだよ」と言う。
君子も
「そう、よく似ているわ。目元も、眉毛も、鼻も」
義父が隆司の顔と忠雄の顔を見比べて言った。
「いや、鼻の形は全然似てないよ。君子の鼻にも似ていないし」
すかざず、君子は反論する。
「鼻もパパそっくりよ。顔全体が生き写しよ」
義母も、父親そっくりだと反論する。
どうして義母も君子も隆司が俺に似ていると言い張るのだろう。隆司と俺が似ているなんて、当たり前のことだ。半分は俺の血が入っているのだから。
 しかし、義父に言われて初めて気がついたが、隆司の鼻の形は俺の鼻の形と違う。かと言って、君子の鼻にも似ていない。あのまん丸い、鼻柱の通った、顔の面積に比べていやに大きい鼻は一体誰の鼻に似たのだろう。それに、君子は「鼻もパパそっくりよ」などと、どうして言うのだろう。鼻の形は全然似ていないのに。
 俺の気がかりをよそに、君子は隆司が俺に似ている、似ていると三日に一度は言うようになった。以前はこんなに言わなかったのに。どうして最近似ていると言うのだろう。幼稚園のときにも似ている言っていたのかなぁ……。最近よく言うようになったような気がするのはどうしてだろう。俺が気にしているから、返ってよく言っているように聞こえるのかもしれない。
 君子が妊娠したころは、街に出ると妊婦がよく目に付いたし、隆司が赤ん坊のときは、乳母車がよく目に付いた。人間、見えていても、こちらが気にしているものだけが見えて、気にしていないものは見えないことがよくある。それと同じことか。
 でも、特に親戚の家に行ったり、知人が尋ねてくると、似ている、似ていると、君子はことさら強調する。
昨日だって三回は言っている。どうして、あんなに強調するのだろう……。何かわけがあるのだろうか……。
待てよ。隆司が、俺に似ていないから、わざと似ている、似ていると言っているのか。隆司が俺に似ていないって? そりゃどういうことだ。もしかして、隆司は……。まさか、そんなことはない。そんな馬鹿なことがあるわけがない。
 でもまてよ。隆司が小学校に上がる頃、君子は変なことを言った。「隆司があなたの子でなかったら、離婚する?」と聞いてきた。
あの時は冗談と思っていたのだが……。
いつか君子の実家に行ったとき義母も隆司が俺に似ていると強調していた。二人は何か俺に隠しているのだろうか。そういえば、義父が言っていたように、隆司の鼻は君子の鼻にも、俺の鼻にも似ていない。隆司は本当に俺の子なんだろうな。俺の子に間違いないと思うのだが。
 待て待て。あの鼻、どこかで見たような気がする。でも、どこで見たのだろう。あのいやにでかい丸い鼻。
 数ヵ月後、君子が大学の同窓会に出席したときの写真が数枚送られてきた。忠雄は君子と一緒に写真を見ているうちに、一枚の写真を見てびっくりした。その写真には、君子とある男の二人がアップで写っていた。二人ともうれしそうに笑っているが、よく見るとその男の鼻が隆司の鼻とそっくりなのだ。隆司の鼻は団子鼻で、顔全体に比べて異様に大きいのだ。この男の鼻も団子鼻で顔に対してアンパランスに大きい。
 そういえば俺はこの男のことは、よく覚えている。
 
 結婚して間もない頃、君子は大学卒業アルバムを見ていた。大学では君子は社会学を専攻し、卒論は「女性の社会的地位と男女差別」について書いていた。
 君子はアルバムをめくりながら,専攻ゼミクラスの写真を見せてくれた。写真の中にひときは鼻の大きい学生がいた。鼻が団子鼻で、まるで肉饅頭が顔の真ん中にくっついているようであった。
「この男、鼻がでかいね」
「ええ、この人、後藤さんといってね、団子鼻だったから、団ちゃんて、あだ名だったのよ」
「へーぇ、団ちゃんね」

 あれから十年経った今、君子は同窓会の写真を見ながら言った。
「同窓会、楽しかったわ、久しぶりにみんなに会えて,大学時代に戻ったような気になっちゃった。みんな全然変わってないのよ……。そう、そう、あなた覚えてる? わたしの卒業アルバムに載っていた団ちゃん、団子鼻の」
「ああ、覚えているよ。あの鼻のでかい……名前を何とか言ったな」
 忠雄はギクッとした。君子はなぜ団子鼻の男の話を持ち出すのだろう。
「後藤さんよ。後藤さんも来ててね、大学を卒業して社会科の先生をしていたのだけど、すぐ先生を辞めてね,東芸大に入学しなおして、いま、建築デザイナーをしているんだって」
「建築デザイナーって顔じゃないが」
「ええ、でも、高校時代は美術部に入っていたそうよ。お父さんが美術の先生だって。社会科の先生より、建築デザイナーのほうが向くと思うわ。ほら、名刺をもらったわ。今度、大阪に転勤だって」
 君子は熱っぽく後藤の話をする。差し出した名刺を見ると「グローバルデザイン株式会社 名古屋支店 建築デザイナー 後藤隆司」とあった。
隆司って、息子と同じ名前じゃないか。隆司って名前は、君子がどこかの姓名判断相談所で最終的に決めてきた名前だったはずだが……。この団子鼻と同じ名前とは。
忠雄はさらに会社の住所を見て驚いた。名古屋市中区正木町とある。君子の実家も中区正木町だ。君子はよく隆司を連れて、実家に帰っていたが……。隆司という名前にしても、正木町にしても、偶然だろうか。
 君子はいつもより興奮気味だった。うれしそうで、後藤さんが、後藤さんが、と後藤のことばかり話す。  
忠雄は後藤と君子の関係を疑い始めた。
どうも変だ。隆司の鼻が後藤の鼻にそっくりだ。どうして君子はわざわざ団子鼻の男のことについてこんなに話をするんだろう? あのはしゃぎようは一体何なんだろう。ことさら団子鼻の男の話をしているのは、私が疑っているのに気がついていて、逆手に取ってはぐらかそうとしているのか。君子はあれでいて、相当頭が切れるからなあ。
 まさかと思うが、隆司はあの団子鼻の子かもしれない。そんなことはないと思うが、全く否定もできない。鼻が物語っている。でも、まあ、馬鹿げている。思い過ごしだろう。君子はそんな女ではない。そんなはずはない。
 忠雄は、君子の同窓会があった日以来、家に帰って来ても、どうも居心地が悪く、君子が隆司と親しく話をしているのを見ると、自分がのけ者のように感じるようになった。
最近、俺はどうかしている。
 数週間たって、隆司は夕食のときに言った。
「今日学校でね、先生に絵がうまいって誉められたよ。才能があるって。僕の絵が、今度香港に送られて、香港の小学校に飾られるんだって。代わりに香港の小学生の絵が日本に送られてくるんだって。香港の子ってどんな絵を描くんだろう」
「そう。それは良かったわね。隆司は幼稚園でも先生が絵が上手だって誉められてたもんね」
「隆司、お前たいしたものだ」
と、忠雄は言ったものの、どうも腑に落ちなかった。
君子も俺も、君子の親だって、俺の親だって、誰も絵がうまいものはいない。どうして隆司は生まれつき絵がうまいのだろう。
 はっと気がついた。あの男だ。あの団子鼻だ。あいつは建築デザイナーだし、いつか君子があいつの親が美術の先生だと話していた。団子鼻の子なら絵がうまいのは当たり前だ。団子鼻の子なんだろうか。まさか。まさか。俺は考えすぎだ。
 その年の暮れ、また疑わしいことが起こった。忠雄が年賀状の宣伝チラシを見ていたら、君子が、今度の年賀状から家族三人の写真を年賀状に載せようと言うのだ。結婚以来年賀状はごくありきたりの年頭の挨拶と干支のイラストを描いたものだったのだが、なぜ今度から家族三人の写真を載せようと言うのだろう……。
 そうか、分かった。そう言えばあの団子鼻の後藤は、大阪に転勤だと君子が言っていた。正木町の建築会社に隆司を見せに行けないから、あの団子鼻に隆司の写っている写真つきの年賀状を送ろうという訳だ。
「写真は高くつくよ」
「ええ、そりゃ高くつくけど、年に一回だけよ。隆司も一年生になったし、みんなに隆司のこと見てもらういい機会じゃない」
「俺は、あまり気が進まないな」
「どうして」
「どうしてって、ただ……」
「ただ、何なのよ。写真は都合が悪いの? ありきたりの年賀状よりよほど近況報告としては、ぴったりよ。何か都合の悪い訳があるの?」
「お前こそ、写真にする訳があるのか」
「何言ってるのよ。特に訳なんかあるわけないでしょ。反対なら今まで通りでもかまわないのよ」
「分かった、分かった。いい機会だし記念になるし、写真にしよう」
「変な人」
 とうとう、君子に言いくるめられてしまった。これで君子は隆司の写真を毎年あの団子野郎に送れるわけだ。
 しかし、まだ隆司は団子鼻の息子と決まったわけでもないのに、どうして俺はむきになってしまうのだろう。どうも最近俺は考えることや言うことがおかしい。
 三ヶ月経った。隆司のことは気にしないでおこうと思っても、どうしても気になってしまう。本当に俺の子なんだろうな。団子鼻の子であるなんて、考えられない。そんなことがあるはずがない。
忠雄は次第に隆司が本当に自分の子なのか、そうでないのかはっきりさせないではいられなくなってきた。毎日が苦痛であった。
中途半端な状態が一生続くのは耐えられない。君子にそんなことは聞けないし。団子鼻の後藤を突きとめて聞いてもしょうがない。でも何か方法があるはずだ。隆司の血液型はA型だし、俺ははAB型だ。これでは何も証明できない……。どうしたらいいか。
忠雄が悩んでいたそんなある日、君子が
「あなた、最近DNA組み換え食品ってよく聞くけど、DNAって何のこと?」と聞いた。
「ああ、それは、遺伝子のことだ」忠雄は君子がDNAのことを知らないことに驚いた。やはり女は常識がないなと思った。
「確か、デキオ何とかアシドとか言ったな。人間の細胞の染色体にある遺伝子情報のことだ」
「へーえ、その情報が組み替えられると、どうなるの? 組み替え食品は危険なの?」
「うん、人工的に遺伝子を操作するんだから、変な食物ができてしまうのじゃないか。自然のままが良いということだろう」
と言いながら、忠雄は内心、そうか、DNA鑑定があった。なぜこんな簡単なことに気がつかなかったんだろうと思った。
君子はタイムリーな質問をしてくれた。DNA鑑定なら犯罪や、中国残留孤児の親子鑑定などでよく使われている。
 しかし、鑑定の結果、隆司が自分の子でなかったらどうしよう。離婚か。君子は良き妻であり、良き母親だ。特にこれと言った不満はない。世間では、良妻賢母というが、賢妻良母といったほうがいい。なんと言っても、君子は賢い。将棋士のように物事の先が読める。離婚は避けたい。
ただ、君子は俺のことをどう思っているのだろう。俺はなんたって、酒癖が悪いから……。酒を飲むと何でもかんでも、べらべらしゃべってしまうからな。
そうそう、新婚当時、君子と結婚する前に付き合っていた女性が美人で、リッチで、育ちが良くてと、とうとうと話したことがあった。あの時、君子は怒ってしまったな。酒を飲まなければ俺は口は堅いんだが。
それから、俺の大学の後輩が家に遊びに来たとき、酒を飲んで、君子の前で、君子の親父の悪口をならべたてたら、そのときは君子は、にこにこしてたが、後輩が帰ったら、えらい剣幕で怒ったことがあった。
最近も酒を飲んで、最近入社した女子社員がとびきりの美人で、あんな女と結婚すればよかった、お前と結婚したのは失敗だった、などと君子に言ったことがあり、君子は「何を馬鹿なこと言ってるの」と言っていたが内心怒っていただろうな。
いやいや、そんなことはどうでもいいのだ。今考えなければならないことはそんなことではなく、隆司が俺の本当の子かどうかということだ。
で、離婚はしたくないが、隆司があの団子野郎の子供となると話は別だ。俺は一生涯、隆司のことを知らないふりをして生きていくことはできない。俺はそんな人格者ではない。俺はけちな男だ。了見の狭い男だ。俺は自分をごまかして生きていくことはできない。隆司が俺の子でなかったら、離婚するしかない。
ではどのようにDNA鑑定をすればいいのか。病院に行って血液検査をすれば俺のDNA鑑定はできるが、隆司の鑑定は隆司を病院に達れていかなければいけない。病院に連れていけば隆司は君子に病院に行ったと言うだろう。隆司を病院に連れていかずにDNA鑑定をする方法はないものか。
二週間後、君子は「インターネットって怖いのね」と言って、ある新聞記事を見せてくれた。それによると、ある女性がインターネツトで取り寄せた毒物により自殺したというのだ。
忠雄はこの記事を読んでインターネットを使えばDNA鑑定をしている病院が探せるかも知れないと思った。さっそくコンピューターを立ち上げ、DNA鑑定関係のサイトを検索した。しばらくしてDNA鑑定をしているという病院を四つ見つけた。しかし、四つとも本人が病院に来て鑑定をしなければならなかった。これではダメだ。隆司を病院に連れていくことはできない。
さらに別の検索でDNA鑑定のサイトを捜していたら、「ジーン・ジヤパン」というDNA鑑定会杜のホームページを捜し当てた。鑑定は簡単だった。会社に爪とか毛髪、唾液などのサンプルを郵送すればいいのだ。ただし鑑定料が高かった。一組の親子鑑定は約十六万円するという。高いとは恩ったが、一生続くであろう苦痛を取り除いてくれるのだから、それだけの価値はあると思った。
さつそく忠雄は隆司と自分の髪を送った。送ってしまうと何かさっぱりした。結果が来るまで三週間あった。この三週間は、隆司を他人の子ではなく、自分の子として一緒に遊んた。
なんと言っても、生まれたときから、俺を父親だと思っている。隆司が団子鼻の子なら、分かれるのはつらいが、それはなんともしょうがないではないか。
忠雄は半分怒れてきて、半分寂しいような気持ちになった。それでも、鑑定を依頼する前のいらいらは一切なくなっていて、心が落ち着いてきていた。
「あなた、やっと元のあなたに戻ったわね。このところ帰りは遅いし、むっつり考え事をしているし、よほど仕事がきつかったのね」
「うん、やっと懸案の仕事が一段落してね。ほっと一息と言うところだよ」
と言いつつも、こんな会話はいつまで続くかなと思った。
三週間後、鑑定結果が会杜に送られてきた。宛名はもちろん君子に分からないように会社にしておいた。
忠雄は胸の高鳴りをおさえ、封筒を開いた。結果は親子の可能性は九九、九九九パーセントであった。
これは事実上、親子と言うことだ。隆司は俺の子だ。俺の子だ! 俺の子なんだ。離婚をしなくて済む。良かった、良かった!
一体この半年ほどこの俺をさいなんだのは何だったんだろう。重い鎖が解き放たれた。
その日は残業で帰りが遅くなった。家に着いて隆司の寝顔をじっくりと眺めた。君子の言う通りだ。隆司は俺そっくりだ。隆司は俺の子だ。
「あなた、今日、何かいいことが会社であったのね。顔色がとても良いし、心が何か晴れ晴れしたような感じよ。お酒でも飲む?」
 おお、酒だ。君子はたいした賢妻だ。よく気がつくよ。
久しぶりに酒を飲んだ。女房に内緒の祝い酒だ。
「あなた、本当にうれしそうね。もう一杯どう?」
思わず酔いが回ってきた。酔いが回りながら、ついつい笑ってしまった。笑いながらも涙が出てきた。
「今日は愉快だ。実に!」
 酔いがますます回り、笑いが止まらなくなり、涙が頬を伝って流れた。
「あなた変よ。どうしたの。泣いたり笑ったりして。何かあったのね。何かうれしいことがあったのでしょう。何があったの?」
「いやあ、今まで黙っていたんだが、実は…」
と言って、忠雄は隆司が自分の子でないかもしれないと疑って、DNA鑑定をした経過を一部始終君子に話した。君子は呆気にとられた顔をし、黙って聞いていた。
その晩、忠雄は久しぶりにぐっすり眠ることができた。
翌朝、君子が言った。
「昨晩は一睡も眠れませんでした。わたしのことを信用していないような人と、これから一緒に暮らしていく自信がありません。離婚して下さい」


おわり

  
4百字詰め原稿用紙約十八枚

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