2009年10月17日土曜日

泣きじゃくる声

昭和三十年、私は十歳だった。
ある日、下校の途中、進一が後ろから私に追いついて言った。
「お化け屋敷があるけど、行かへんか」
お化け屋敷、という言葉につられて、私は進一の後について行った。進一の先を、少年が十人ぐらい歩いている。みんなお化け屋敷に行くようだ。
赤トンボが飛び、空が青く澄み切っていた。一体どんな怖い屋敷があるんだろう……。十五分ぐらい田舎道を歩くと、S川があり、川を渡ったところに一軒家があった。みんなその前で止まった。これがお化け屋敷らしい。
見たところ普通の家だ。なんでこれがお化け屋敷なんだ、と思っていると、誰かが「石を投げよう」と言った。みんな、石を拾って、玄関に投げだした。私は、始めは、ただ突っ立っているだけだったが、つられて石を拾い、投げた。玄関は格子戸で、石は木枠に当たって跳ね返った。周りの子は次から次へと石を投げ、格子の枠内のガラスに当てる子もいた。
少しも面白くなかった。みんな、しきりに投げている。私は、またつられて石を投げた。二つ目の石も木枠に当たって、ガラスには当たらなかった。
突然、「誰か来るぞ! 逃げろ!」という声が聞こえた。みんな逃げた。私も逃げた。
翌朝、学校で全校朝礼があった。体育担当の柴田先生が、朝礼台にあがり、全校生徒に向かって言った。
「みなさん、今日は大変残念なことを言わなくてはなりません。昨日、ある人が学校にみえまして、新築中の家が男の子たちに壊された、と言われました。家はS川を渡ったところにあります」
えっ、それじゃあ、あの家だ。あの家はお化け屋敷でなく、新築中の家だったか。
 先生は続けて言った。
「その方は、家を壊していた男の子は本校の生徒だと言われるのです。そこで、みなさん、もし君たちの中に、家に石を投げたり、壊したりした人がいたら、正直に手を挙げて下さい」
石を投げたって? じゃあ僕のことだ。手を挙げなきゃ。
左の列を見ると、進一が手を挙げて私の顔を横眼で見ていた。
お前も手を挙げろよ、と言っているようだった。私も手を挙げた。
柴田先生はしばらく間を取ってから言った。
「他にいないか。いたら正直に手を挙げなさい」
 周りを見た。十人ぐらい手を挙げている。
「今、手を挙げてる者、前へ出てこい!」先生の語調が変わった。
手を挙げていた者は朝礼台の前に進んだ。
朝礼が終わった。他の生徒は校舎の東玄関に向かって行進し、校舎の中に入って行った。後には、私たちだけが残された。運動場が広かった。
 私たちは校長室に連れて行かれ、一列に並んで立たされた。柴田先生は、家がどのように壊されたかを話した。畳が土足で汚され、唐紙や障子や襖が破られ、ガラスが割られたらしい。
おかしい。昨日、誰も家の中に入った子はいなかったのに、誰かが、もっと前に家の中に入ったんだ。
 一時間目の授業が終わると先生方が五、六人校長室に入ってきた。一体どんなド坊主が家を壊したんだ、と言わんばかりの顔をしている。じろじろ私たちを見て、ひそひそ話をしている。私が話題になっているようだ。「あの、左から二番目、あれは、今の生徒会長の弟だよ」と言っているようだ。私の兄は六年生で、生徒自治会の会長だった。
 二時間目の始業ベルが鳴り、先生方は帰って行った。
 柴田先生が言った。
「君たちの他に誰かいなかったか。これで全員か」
誰も答えなかった。
「他にいないんだな。お前たちだけな」
先生は私たちを見渡した。
「間違いないな」
 先生は念をおした。
後藤が言った。
「八十二(やそじ)も、いました」
「八十二? 堂前八十二か」
「はい、堂前もいました」
堂前は、ひょろりと大きく、鼻たれで、いつも先生に叱られていた。遅刻はする、掃除はサボる、宿題はやってこない。授業中寝る。五日ぐらい前に、堂前は、ほうきを持って徹也を追いかけ、廊下のガラスを割ったばかりだった。
なぜ八十二という名前がついたかは、みんな知っていた。四月の自己紹介の時、黒板に「八、十、二」と書いて、「僕は八月十二日に生まれたんや、ほんで、八十二ちゅう名前なんです」と説明した。
柴田先生が言った。
「後藤の他に堂前を見た者はいないか」
「僕も見ました」進一が言った。
「僕もです」私は反射的に言っていた。
一瞬の出来事だった。私は堂前を見ていないのに「僕もです」と言ってしまった。なぜ言ってしまったのか。先生は、堂前もやったと言う確信を欲しがっている。先生の求めているものを提供することが生徒の務めだ。二人の生徒が「八十二を見た」と言っている。自分も「見た」と言っても大勢は変わらない、と思ったのだ。先生に協力することは「いい事」で、「いい子」になろうとしたのだ。勿論、十歳の私は、単純で、この場合、先生に「協力すること」の本当の意味を理解していなかった。うわべだけの、子供心で考えた「協力」だ。朝から立たされ、悪い子扱いされ、先生方から冷ややかな目で眺められ、挽回を計ろうとしたのかも知れない。「僕もです」と言った時、私は黙っている他の生徒に対して、優越感を感じた。他の生徒に差をつけた、と胸を張る思いだった。
他の生徒は黙っていた。先生は他の子には聞かなかった。三人も「証言」があれば、先生としては、もう疑う余地はないと思ったのだろう。まさか私が嘘をついているなどとは思わなかったのだろう。ベテラン教師でも十歳の子の、圧迫された、初めて校長室に立たされ、先生方の目にさらされる時の異常心理までは分からなかったのだろう。そこまで分かる先生は児童心理に通じ、自分自身そういう経験をしていなければならないだろう。柴田先生のような怖い、荒っぽい、大声を張り上げ、生徒を震え上がらせるような先生では到底私のあの時の心理状態など分かるわけがない。それは仕方のないことだ。
早速、堂前が校長室に呼ばれた。
堂前は、私たちの斜め前で「気をつけ」の姿勢で立ち、こちらを、チラッと見た。
柴田先生が言った。
「八十二、お前、この連中と一緒に家を壊していないか」
「僕、やってません」堂前は顔をあげて先生を見た。
「正直に言ったらどうだ」
「僕、やってません」
「嘘を言ったら承知しないぞ!」先生の声が荒々しくなった。堂前は黙って先生の顔をにらんでいる。
 先生は言った。
「ここにいる三人の生徒が、お前が一緒にいた、と言ってるんだ!」
先生は堂前のすぐ前まで近づいた。
堂前は殴られるかも知れない、と私は思った
「僕、やってません。やってません!」
堂前は泣き出しそうな声になった。
「本当か! 嘘をついてるんじゃないだろうな」
「本当です。やってません、やってません!」
堂前は泣き出した。かわいそうになってきた。
「泣いてごまかそうとしたって駄目だぞ!」
先生は、私たちの方を向いた
「さっき、八十二を見たといった者、もう一度聞くが、ちゃんと見たんだな、ええん? 後藤、お前、八十二を見たんだな」
「はい」後藤が答えた。
「西村も清水も、間違いないな」
 二人とも「はい」と言った。私は「はい」と言いながら、大変なことになってしまったと思った。もし、堂前が本当にやっていないなら、とんだ濡れ衣だ。堂前は、しゃくり上げながら泣いている。
「八十二、聞いたか。三人が、お前を見たと言ってるんだ! お前、やったんだろう!」
「やってません!」
パシンという音がした。先生が八十二の頬を平手でたたいた。八十二はさらに殴られるかと思ったのか、右腕で頭を覆って、一歩後によろけた。
八十二は大声で泣きわめいた。
「やってません! やってません! やってません! やってません!」
顔が涙と鼻水でぐしょぐしょだった。本当にやってないのかも知れない。気の毒に思った。しかし、一方では、やってるくせに、やってないと言い張っている気もした。堂前ならありうる。どちらにせよ、僕は取り返しのつかない嘘をついてしまった。いまさら、「僕は八十二を見てません」と言える訳がない。
 先生は、堂前をいったん教室に返した。
 堂前が校長室を出て行ってからも、「やってません! やってません!」と泣きわめく声が私の頭の中でガンガン響いた。
昼になり、給食のパンを食べた。みんな黙って食べた。
午後二時か、三時頃になって、柴田先生が、校長室に再び現れた。
「今から、始末書を書いてもらう。いいか、やったことを全部書くんだ。正直に」
右端の生徒から順番に、校長先生の机の上に置かれた用紙に「罪状」を書くことになった。一人ずつ順に書き出した。私は何と書けばいいのか分からなかった。 
私の番が来た。机の前に立って鉛筆を持った。用紙を見た。縦線に沿って、七、八人の生徒の「罪状」が順番に書かれ、最後の行に、「ぼくはガラスを二まいわりました  
西村登」と書いてあった。次の行が、私が書くところだ。私は鉛筆を持って一瞬迷った。
何て書いたらいいんだろう。僕はガラスを割ってないし、家を壊したりしてない。しかし、今さら、「僕は何も悪いことはしていません」などとは書けない。だって、朝から叱られ、黙っていたから、罪を認めたことになってしまっている。
 先生の視線を全身に感じた。
何か書かねばならない。何かやったことにしなければ。
私はとにかく「ぼくは」と書いた。それから、そのまま、西村が書いた通り、「ガラスを」と書いた。
そこで、また困った。
障子や襖を壊すというような大それたことは、僕はできるわけがない。家の中を荒らすなんて悪い奴だ。せいぜいガラスを割ったぐらいが、僕にあっている。
そこで、「ガラスを」と書いて何枚にしようかと迷った。
一枚でいいのか。一枚では罪をのがれようとして、最低の数を書いたように思われるかも知れない。一枚よりも二枚の方が、罪が大きくて先生も納得しそうだ。
結局「ぼくはガラスを二まいわりました 清水健二」と書いて、机を離れた。
 私は威圧的な雰囲気に飲まれて、それに従順に従うしかなかったのだ。私は生まれて十歳になるまで、兄の後をついて歩き、兄の真似をして生きてきた、兄がなんでも私のために道筋をつけていてくれた。だからか、私は、自主性のない、気が弱い、反抗することを知らない少年になっていた。
 始末書を書き終わってから、また立たされた。
校庭で生徒が遊んでいる声が聞こえる。先生方は誰も校長室に来なくなった。
 放課後になり、掃除の音や下校の声が廊下に響いていた。
午後四時ごろ、私たちは畳敷きの裁縫室に移動した。三人用の長机が、各列三机ずつ、ロの字型に並べてあり、黒板に近い机に柴田先生が座り、その机を囲むようにして、コの字型に並んだ机に生徒が座った。
 しばらくして、校長先生、保護者、担任の先生方が裁縫室に入って来て、それぞれの生徒のそばに座った。母が来ていてくれた。母は私の隣に黙って座り、担任のO先生がその隣に座った。
 まず、校長先生の挨拶があった。それから、柴田先生の話が続き、昨日来校した人の事、家の被害状況、始末書の内容等を説明した。全ての話が終わると、後は担任の先生と保護者と生徒の懇談となった。
 O先生が母に言った。
「健二君は、他の生徒の影響を受けやすいですから」
全くその通りだった。他の生徒、他の人、他のものに影響を受けやすい性格は今も治っていない。
 母は、懇談中、何度もO先生に頭を下げ、二十分かそこらで懇談が終わり、私はやっと家に帰ることができた。授業は一時間も受けなかった。
 学校帰り、母は何か私に言ったと思うが、何を言ったのか覚えていない。
 家に着いた。父はあまり私を叱らなかった。私をきつく叱ったのは兄だった。生徒会長ということもあり、兄の顔に泥を塗ってしまったのだ。兄が言った。
「健二、お前、何やっとるんや、みんな言っとったぞ、お前が朝礼台の前に立っとったって」
 申し訳けないと思った。
家族は自分の味方なのに、「僕はガラスを割ってない、何も悪いことはしてない」と言うことができなかった。そんなことが言える訳がなかった。言おうという意欲も湧かなかった。ただ兄に対して本当に申し訳ないことになってしまったと思った。
二年半後、私はK小学校を卒業し、K中学校に入学した。堂前は大阪に一家転住した。

それから、三十五年経った。私は四十七歳になり。N市の高等学校で歴史の教師をしていた。堂前のことは忘れかかっていた。
 ある日曜日の夕方、いつものようにY川沿いに散歩していると、新築の家があった。何の気なしに真新しい表札を見て驚いた。表札には「堂前八十二」と書いてあるではないか。
えっ、堂前がここに住んでいるのか。あの八十二が……。
この「堂前八十二」は、あの「堂前八十二」だと確信した。と言うのは、堂前などと言う苗字は、それまで生徒を延べ四、五千人は教えていたが、誰ひとり「堂前」と言う生徒はいなかった。また、「八十二」という名前の生徒もいなかった。要するに、苗字も名前も両方ともめったにない名前なのだ。恐らく何万人か、何十万人に一人だろうと思ったから、あの堂前に間違いないと確信したのだ。
家をじろじろ見ては怪しまれるから、知らぬ顔をして、その家をやり過ごし、二十メートルぐらい歩き、さも何か忘れ物をしたような足取りで、またその家に引き返し、家の前を通り過ぎる時、もう一度表札を見た。「堂前八十二」。間違いない。
 急に三十七年前の、校長室の風景が、柴田先生の顔が、母の何度もO先生に頭を下げていた姿が蘇った。堂前の「やってません! やってません!」と言う声が聞こえた。あれ以来ずっと心の奥底に閉じ込めておいたものが、急に私に襲いかかってきた。
 私は足早に、半ば顔を伏せて、その場を立ち去った。堂前に見つかってはまずいと思ったのだ。嘘の証言をしたことに引け目を感じていたのだ。
その日以降、散歩コースを変えた。しかし、別のコースを散歩していても、堂前の姿がちらついた。堂前は大阪から、故郷のO市に帰らず、N市に引っ越して来たのだ。しかも私の家の近所に。もし、ばったり会ったらどうしよう。私だと分かるだろうか。堂前の顔は変わっているだろうか。「やってません」は狂言で、本当はやっていたのだろうか。頭の中が小学校四年生の時と同じ心理状態になった。嘘を言った後ろめたさと、堂前は本当はやってるんだ、という開き直りの心理だ。
 四回散歩すると、その内の一回は、足がどうしても堂前の家に向いてしまった。
 堂前の家の前を、素知らぬ顔をして、目と耳を最大限に敏感にして、通り過ぎた。家の中の様子は分からない。私は、本当に堂前に会いたい訳ではなかったが、反面、会って、詫びなければならないと思っていた。しかし、もうかれこれ四十年は経っている。堂前は忘れてしまっているかも知れない。
玄関に呼び出しブザーがある。あれを押しさえすれば、堂前が顔を出すかもしれない。しかし、わざわざブザーを押して、詫びるべきほどの事なのだろうか。自分は自責の念はある。それをずっと押し殺してきたのだ。このまま押し殺したまま生きていくことだってできる。
 堂前の家を発見してから、二カ月経った。その頃、C大学が歴史学専攻(修士課程)社会人コースを新設した。仕事を持っている社会人のために、夜間開講する大学院だ。私は、かねてからジュリアス・カエサルのガリア遠征に興味を持っており、『ガリア戦記』の研究をしていたから、思い切って大学院入学試験を受験した。小論文、面接があり合格できた。その後二年間は、昼間は高校で歴史を教え、夜間は大学院で学ぶことになった。 
 大学院生になってから、多忙を極めた。学校の仕事がある。部活動の仕事がある。授業の下調べがある。試験の採がある。そこへ大学院の研究が加わった。五分でも、一〇分でも時間が貴重だった。学校を終えて大学まで車を運転した。途中、赤信号で停車する一、二分でさえも文献を読んだ。週末に悠長に散歩などしておれなかった。修士論文を仕上げる頃は、晩飯を食べながら、資料を読んだ。もう堂前のことなどどうでもよかった。頭の中はカエサルのことで一杯だった。
二年後、論文を提出して審査が通った。五十歳になっていた。
大学院を修了すると、また週末に散歩を始めた。久しぶりの散歩だ。足がひとりでに堂前の家に向かった。なんだか懐かしい。家の方に近づくにつれ、心臓の鼓動が速くなってきた。屋根が見えてきた。それから、門柱が見え、家の前まで来た。玄関先のシュロの木も変わっていない。通り過ぎながら表札を見た。「伊藤幸治」と書いてある。
えっ、どうしてだ。どうして「伊藤幸治」なんだ。
玄関に近づき、もう一度表札を見た。「伊藤幸治」だ。堂前は引っ越してしまったのだ。新築の家から引っ越すとは、何かよほどの事情があったのか。
堂前が引っ越して、半分安心し、半分残念に思った。詫びるチャンスも、真実を知るチャンスもなくしてしまった。もっとも、堂前に面と向かって詫び、真実を聞く勇気もなかったが……。とにかく緊張が解けてしまった。その後、堂前のことは次第に忘れていった。

それから、十年経ち、私は六十歳になった。
初夏のある日、K小学校から同窓会の案内が届いた。私はN市に引っ越してから、めったに同窓会には出ていなかった。しかし、今回は還暦の同窓会だ。きっとみんな集まってくるはずだ。これは行かねばなるまい。同時に、堂前のことが思い出された。堂前も来るかも知れない。会うとまずい……。校長室の風景がよみがえってきた。堂前の悲痛な叫び声が聞こえてきた。しかし、会いたい同窓生も沢山いた。進一も、登も、徹也も来るだろう。堂前一人のために、行かないのもしゃくだ。
堂前があの事を私に問い正したら、何と答えればいいのか。堂前は、「俺はやっとらへんのに、お前、俺を見たと言うなんて、なんという大嘘つきや」と言うかも知れない。しかし、進一も、後藤も堂前を見たと言っている。本当は、堂前は家の中に入って、建具をめちゃめちゃにした可能性だってあるんだ。その時、進一や後藤が一緒だったかも知れない。大体、そんな昔の話題が出るとは限らない。堂前が来ていても知らん顔をしていればいい、しらばっくれればいい、ひと間違いだったと、謝ればいい。逆に、堂前の方から、「実は俺、中に入って障子を壊してたんだよ」と言うかもしれない。とにかく同窓会に行くだけ行って、後は出たとこ勝負だ……。
同窓会はお盆の十四日に、O市のホテルの宴会場で開かれた。受付で名札をもらい、胸につけ、会場に入った。七、八十人ぐらい集まっていた。先生方も二、三人来ていたが、O先生は来ていなかった。もう八十歳過ぎだから無理だろう……。進一も来ていなかった。
開会の挨拶と乾杯があり、みんなワイワイ、ガヤガヤ、相手の名札を見て、ああ、XX君か、あれ、OOさん、久しぶりだなぁ、と言い合い、歓談し、飲み、笑い、食べ、肩をたたきあい、握手をし、名刺を交換した。みんな昔と全然変わっていなかった。
 歓談しながらも、私は、堂前のことが気になっていた。ビールの入ったグラスを持って、人混みをかき分け、胸の名札を見て回った。堂前はいなかった。なんだ、取り越し苦労かと思ったが、安堵の気持ちもあった。
 念のため、受付をしている徹也の所へ行って堂前が来ていないかどうか尋ねた。
「堂前って、あの八十二か」
「そう、八十二、今日来てるか」
「お前、知らないのか」
「えっ、何を」
「そうか、お前、確かN市に引っ越してったからなぁ、八十二は死んだよ」
「ええっ、死んだって……、いつ、いつ死んだんだ」
「そうだなぁ、もう十年ぐらい前だ」
 十年前と聞いて、急に散歩中に見た「堂前八十二」という表札を思い出した。
「どこで死んだんだ」
「さあ、そこまでは知らないが。どうして」
「いや、ちょっと……」
 堂前は死んだのか。死んでしまったのか。周りの雑踏が急に消え、自責の念がずしりと、のしかかった。
悪いことをした。この問題は、堂前が家を壊した、壊さなかったには関係ないんだ。あの場で「いい子」になろうとして、嘘をついたことが問題なのだ。俺は悪い子だった。どうして十年前、散歩のとき、堂前の家を訪れ、詫びなかったのか……。
 しかし、しかし、実際、詫びただろうか……。死んでしまったから、死んでしまったから、そう思うのかも……。
 堂前の泣きじゃくる声が聞こえてきた。
「やってません! やってません! やってません! やってません!」
                     
 完

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