2010年1月12日火曜日

康子

「あなた、隆がいるわ。お風呂よ。ほら、今日幼稚園で習ってきた歌を歌ってるわ。♪ ぞーさん ぞーさん お鼻が長いのね」
青白い顔をした康子が、目だけ嬉しそうに輝かせてかすれるような声で歌いだした。
「また始まった。康子、隆はもう亡くなっていないんだよ」 
 靖雄はイライラする気持ちを抑えて言った。病院の玄関ロビーは案外声が響く。他にも入院患者が、見舞いに来た人と話している。
「何言ってるのよ、ほら、楽しそうに歌ってるじゃない。聞こえるでしょ」
 康子が精神病院に入院してから三年経っていた。
 四年前、隆が幼稚園の園児だったとき、一人で風呂に入っていていた。隆が風呂からなかなか出てこないので、康子は変に思い、風呂に行って驚愕した。隆は頭から血を流し倒れていた。救急車を呼び、病院に運んだときにはもう息が切れていた。
 康子は変わってしまった。隆の思い出が詰まったマンションには住めなくなり、新しいマンションに引っ越した。風呂は隆の死後入れなくなった。食事ものどを通らなくなり、パートの仕事も止めた。家に閉じこもりがちになり、家事をしなくなった。靖雄の週末は掃除、洗濯、買い物でつぶれた。康子はいつも「隆ちゃん、隆ちゃん」と泣いていた。
隆の死後一年ほど過ぎて、康子の言うことがおかしくなった。隆の声が聞こえるという。隆の姿が目に見えるというのだ。
「あなた、見えないの。ほら冷蔵庫の前に立っているじゃない。隆ちゃん、アイスクリームをそんなに食べると、ポンポン痛くなるから、しょうがない子ね」
 康子の症状は悪化し、テレビで幼稚園の園児が遊んでいる番組を見ていると、康子はテレビの画像を指差して、「ほら、隆が遊んでる。楽しそうね」と言ったり、電車に乗っても「あそこの人たち隆のことを話しているわ」と言ったりした。
とうとう靖雄は康子を車で一時間ほど離れた精神病院に入院させた。近所には「康子が体調がすぐれず、しばらく実家に帰した」と言っておいた。
 入院してから、週末には必ず見舞いに行った。しかし、見舞いに行っても全然見舞いのし甲斐がなかった。
 病院の看護師の話によると、康子は入浴をひどく嫌い、看護師が二人がかりで無理やり入浴させるとのことだ。病院の廊下を「隆ちゃん、隆ちゃん、良く来たね。お母さん、待ってたのよ」と言って、病院から患者に配られる菓子を廊下に並べて座り込んでしまうそうだ。院長に症状を聞いても、精神的なショックは立ち直るのに時間がかかると言う。どれぐらいかかるかは、ショックの度合いと、本人の性格により、まちまちらしい。子供を交通事故で三人も一度に亡くした母親は、その後二十年経った今でも治らないで入院中だそうだ。精神病の原因は、精神的な苦痛から身体を救うために、胃腸とか心臓などの内臓を犯す代わりに、人格を別人にしてしまうために生ずるらしい。
 康子は靖雄の大学の後輩だった。康子の父親は医者で、康子をゆくゆくは医者に嫁がせようと思っていた。だから商事会社の靖雄と結婚するのには反対であった。康子は家を飛び出し、親の反対を押し切って靖雄と結婚した。
 靖雄は康子の見舞いが億劫になってきた。初めは毎週だったのが、月に二、三回となり、ついには月に一回となった。見舞っても話が全然かみ合わないからだ。隆の話ばかりする。隆が生きていると信じている。隆の葬式の写真を見せても信じない。康子は靖雄の目を決して見ない。靖雄の右肩の後ろの方を見て話す。見舞いの果物や好物の菓子パンを出しても、隆に食べさせる、と言って食べようとしない。 
「あなた、この前頼んでおいたでしょ。また持って来てないの? 隆の玩具。今度ちゃんと買ってきてね。もう、忘れっぽいんだから。新幹線よ。それから玩具のパンフレットも持ってきてね」
 靖雄は一時間も車を走らせて、病院に見舞いに行っても、帰るときは打ちひしがれた。重症だ。治らないかもしれない。俺の人生は妻の見舞いで終わってしまうのか。あの熱烈な恋愛は一体何だったのか。もう一人子供を作れば康子は立ち直るだろうと思っていたが、それは無理だ。たまに外出許可をもらって家に連れて来ても、そんな気になれないし、第一、康子はもう以前の康子でなくなってしまった。靖雄のことなど全然何も思っていないように思えた。会社の仕事はまずまず順調にこなしてはいるものの、世の中が嫌になった。子供が風呂で死んでしまう。これはあまりにもひどい。さらに康子が精神病にかかってしまった。なぜ、こんなに人生は厳しいのか。俺が安らぐところはないのか。康子は康子で自分の世界を構築している。その世界には隆がいる。隆の死後、隆と共に生きているのだ。妻は死ぬまで、いや、死んでからも隆と共に生き続けるのだ。精神病と言えば世間から疎まれているが、康子自身はおそらく病気と思っていないのだろう。康子は夫の俺が見舞いに来てくれるし、隆はすぐそばにいるし、病院食とは言え、三度の食事は言わば「据え膳」だ。康子は端から見れば不幸だが、虚構の世界に生きる康子は、康子なりに幸せかもしれない。それにひきかえ、この俺は一体何なのだ。どこで狂ったのか。一人で朝飯を食い、会社に行き、会社から帰ると、掃除、洗濯、買い物と、家事を一切男手一人でやる。一体俺は何をやっているのか。一生の伴侶、一生の友、喧嘩をしても仲良く二人で暮らしていくはずだったのに。週末にたまに外出しても家族連れがすぐ目に入り、うらやましく思い、あの家族のあの子供が死ねば良いと思ったりする。恐ろしいことだ。一人でテレビを見ていても空々しい。一人で晩飯を食っていても、おいしくない。話し相手がほしい、心を割って話す相手が、泣いてわめいて喧嘩をする相手が、まっとうに話ができる相手がほしい。午前〇時を過ぎて、一人で布団にまた入るのだ。誰も起こしてくれない。この部屋でたった一人で、この家でたった一人で布団の端を両腕で人形のように抱え、背中を丸めて泣くようにして寝る毎日だ。
康子が入院して五年が過ぎた。靖雄も来年は四十になろうとしていた。
「後藤さん、そのネクタイ素敵ですね」
 廊下で会った若い女子社員から声をかけられた。
「このネクタイ? この前、出張でシンガポールに行ったとき買ったんだよ。そんなに良いかね。この手のネクタイは君の好みかね」
「ええ、後藤さんのネクタイではそれが一番素敵です。青のタータンチェックのも素敵ですけど」
「えっ、私のネクタイを観察しているのかね」
「ええ、ネクタイと言うより、その……後藤さんを」
「私を? こんなおじさんを、どうして」
「どうしてって」
陽子は黙ってはにかむようにうつむいてしまった。
「君、まさか? ぼくのことを」
「ええ」
陽子は顔を上げ、靖雄の目をチラッと見て足早に立ち去った。
 一体このような打ちひしがれた中年男を、好きになるとは陽子はどういう娘なのか。冷やかしではない。うつむいたとき、ほんのり頬が染まったような気がした。まだ入社して三年か四年しか経っていないはずだから、歳は二十四、五というところだろう。特に美人と言うほどではなく、まあ人並みだが。しかし、そんなことは問題ではなかった。世の中が急に明るくなった。靖雄のことを気にかけてくれる人、強い心の支えとなる人が突如出現したのだ。
靖雄は隆が亡くなってから、始めて自分が生きていると感じた。若い女性が私を好いている。現に好いていてくれると言うことが靖雄にとって何にも代えがたい生きる力を与えた。俺のどこがいいのか。「蓼食う虫も」と言うが、俺みたいな人生に疲れた男を好きになるとは……
 それからの靖雄は変わった。朝起きても、出勤中も、仕事中も、陽子のことが頭から離れなかった。陽子はいつもテキパキと明るく仕事をしていた。廊下で会っても頭を下げるぐらいの挨拶で、傍から見たらまさか陽子が靖雄のことを好いているとは誰も気が付かなかった。
 会議が早く終わったある日、靖雄は思い切って陽子を映画に誘った。映画は英国映画で恋愛物の「ジェーン・エア」だった。映画が終わって、肩を並べて歩きながら靖雄は陽子に、思い切って、自然な声の調子をよそおって尋ねた。
「で、言いにくいんだけど、えっと、安井さんはわたしのどこがいいんですか」
 単刀直入な突然の質問に戸惑ったのか、陽子は五,六歩無言で歩いてから答えた。
「後藤さんて、失礼ですが、亡くなった私の父に良く似ているんです。始めて今の職場に来て後藤さんを見かけて、驚いたんです」
「えっ、お父さんを亡くされてたんですか。ちっとも知らなかった。それは、残念なことでした」
靖雄は陽子が自分のことを恋人としてではなく、父親として見ているのに落胆した。
「で、おいくつでした」
「四十一でした。白血病で」
「そんなに若いときに? それは、その…… なんて言ったらいいのか……」
靖雄は、慰める言葉を捜そうとしたがうまく言葉が出なかった。
「いいんです。もう十年も前のことで、初めは気が狂いそうに悲しかったんですけど」
「そうですか。で、お父さんに似ているって、何が似ているんですか」
「全部なんです。顔つき、体格、それに性格も似てますよ」
「性格って?」
「ええ、なんと言うか、神経質そうで。すみません、変なこと言っちゃって。いい意味で言えば気配りというか、細かいところによく気が付くというか。それに粘り強いところなんか。それから……」
陽子は一瞬、間を置いた。
「それから、どこか背中が寂しそうなんです」
靖雄はうんと唸った。当たっている。康子はいつも靖雄に言っていた。「あなたは神経質だから、もっとどーんと大きく構えたら」とか、「根気があるのは父親譲りね」とか。
 靖雄は家に帰って考えた。俺は陽子の父親代わりなんだ。俺を父親として見ているのだ。しかし父親だろうが何だろうが、陽子のように明るく積極的な若い女性に好かれるのは嬉しく感じた。
 康子の見舞いに行くのが、ますます気が重くなった。妻が入院しているというのに、若い独身女性と交際していることが重荷になってきた。康子は解放病棟に入院していた。解放病棟は許可があれば外出ができる軽症の患者が入っていた。重症患者は部屋に鍵のかかる閉鎖病棟に入っていた。
 康子と話していると時々話が通ずることがあった。
「この前、佐々木さん宅で法事があってね。佐々木さんのお嬢さん、名前をなんて言ったか、えっと」
「圭子さんよ」
「そう、圭子さん、今度結婚するそうだよ」
「圭子ちゃんが。結婚するのね。圭子ちゃん、まだ高校生のとき隆を良くあやしてくれたわ」
「で、結婚式は十月だそうだよ。正式に招待状を送ると言っていたよ」
「じゃあ、隆も一緒に行くのね」
「また、隆はいないんだから……」
「だからいつも言ってるでしょ、隆ちゃんが死んだことを内緒にしておきましょうって」
 話がこうなると靖雄はなんと言って受け答えていいか分からなくなる。一瞬、ああ、普通の康子に戻ったと思うと、奈落の底に突き放される。内緒にしておくって、どういうことだ。やはり、病気は全然治っていないのだ。
「隆は死んで、葬式もやったじゃないか」
靖雄は情けないやら、怒れてくるやら、語気がついつい強くなってしまう。
「もう、帰って。お見舞いありがとう」
と言って康子は玄関ロビーの椅子から立ちあがり、さっさと病室にかえってしまう。
また、今日も靖雄は重々しい気持ちで車を運転して帰るのだ。日中だというのに、一時間も走るというのに、車の外の景色は見えなかった。
靖雄は家に帰ると康子のことは次第に薄れてきて、代わりに陽子のことが頭に入ってきた。康子に冷酷に突き落とされても、陽子が暖かく引き上げてくれた。会社に行きさえすれば康子のことはすっかり忘れ、陽子がさっそうと廊下を歩き、笑顔で挨拶し、仕事をこなしている姿が靖雄の心を癒してくれた。
 陽子との交際は三ヶ月目に入った。 
「後藤さんって、お子さんを亡くされたそうですね」
「ええ、子供が幼稚園のときに」
「そうですか、やはり、どこか寂しそうなのはそのせいですね」
「寂しそうって、そんな雰囲気がありますか」
「ええ、始めてお会いした時に何かとてもやるせないというか、寂しいというか、そんな雰囲気でした」
「でも、最近は変わったよ。君のおかげだよ」
靖雄は感謝の気持ちもこめて言った。ただ康子のことはなるべく話題にしなかった。康子が精神病院に入院していることを陽子は知らないはずだ。
会社の誰も康子が入院していることは知らない。知っているのは近い親戚だけだから。よほどのことがない限り、親戚の人がわざわざ職場の人にそんなことを言いに来るはずがない。
「わたしのおかげなんて、そんなに持ち上げないで下さい。実は、父もわたしの妹を小学校の二年生のとき亡くしているんです」
陽子は、靖雄が父親に似て、どこか寂しいところがあると言っていた。陽子の父親もお子さんを亡くしているのか。靖雄は陽子と共通点が増えたと思った。なにかそのことを聞いて、また急速に二人が接近したように感じた
陽子は伏せていた目を上げ、思い切ったように靖雄の目を見て言った。
「実は、母がしきりにわたしにお見合いを勧めるんです。わたしはまだ結婚する気はないと言うんですが…… 母は、誰か好きな人でもいるのかと聞くんです」
 陽子は靖雄の目を哀願を込めて見ているようだった。靖雄はその次の言葉を待った。好きな人がいるのか。それは誰か。自分かもしれない。うぬぼれだろうか。
「それで、君、誰か好きな人が……」
「ええ」
 陽子は目を伏せて、答えなかった。靖雄もそのまま黙ってしまった。
その夜、靖雄はこのまま陽子と付き合っていて、この先どうなるのかと考え始めた。康子がいる限り、この交際は平行線をたどる。十五歳年下の女性と結婚している男はいっぱいいる。かと言って康子がいる限り重婚になってしまう。康子が生きていることが恨めしくなってきた。もしいなければ、陽子と一緒になることもできる。精神病の妻を持った夫は一生その妻のために生活を犠牲にしなければならないのか。世の中には重病で入院している妻を看病している夫の話はよくある。それは、妻が夫を正常に認識しているからだ。康子のように夫を認識はしていても単に法律上の夫というだけの関係で、人間的な血の通った意思の疎通がある関係ではない。喧嘩をする夫婦は百パーセント意思の疎通があるのだ。別居をしていても、それは相手を百パーセント夫、または妻と正常に認めているのだ。しかし、精神病は違う。精神に異常をきたしているのだ。正常な形で夫と認識していると言えない。
 靖雄は何とか屁理屈をつけて、陽子との結婚を正当化しようとした。
 そうか、いっそ、康子が死ねばいいのだ。隆が死んだ当時、康子は「死にたい、死にたい」と言っていた。「死にたい」と言わなくなった頃から気が狂い始めた。しかし、心の奥底では、どう思っているのだろう。本当に死んで隆のとこに早く行きたいと思っているのだろうか。そうではあるまい。死にたいぐらい悲しかったのだ。
陽子と結婚するには康子に死んでもらうしかない。精神病を患っている人間は、世の中の何も役に立っていない。家族や周りの者を引っ張り込んで変な話をする。変な態度を取る。周りの者が返って気が狂ってしまう。言わば、精神病者は社会のマイナスだ。社会のマイナス要因はこれを除去しなくてはならない。殺人犯などは社会の大きなマイナスだ。だから死刑もあるのだ。
 靖雄はとんでもないことを考えている自分に気が付いた。自分も気が変になったのかと思った。しかし、本音は、康子がいなくなり、陽子と結ばれることを心底願うようになった。
 そんなことを考えるようになった日曜日、病院に見舞いに行った。
「あなたが来るといい匂いがするの。何か香水の匂いよ」
靖雄は一瞬ドキッとした。昨日陽子とデイトのとき着ていた服と同じ服を着てきたのだ。陽子の香水が服についているのだ。康子は俺が別の女性と付き合っていることに気が付いたのか。うまく切り返す言葉を捜していると康子が言った。
「私にも買ってきて、その香水」
「香水の匂いがするって、何の香水だろう。分からないよ。そう言えは、昨日乗った電車の隣に座ったおばさんが化粧が濃くて、香水ぷんぷんだったよ。多分その匂いが移ったんだ」
「でも、この前見舞いに来てくれたときもよ。同じ匂いよ」
「えっ、そうか。何だろう。会社にも香水のきつい人もいるし……。そうそう、隆の新幹線持ってきたよ」
 靖雄は冷や汗をかいた。うまく話題を変えたが、陽子の事がばれたのかもしれない。しかし、康子は精神異常だ。現に、「わたしにも同じ香水を買ってきて」と言ったじゃないか。「誰か女の人ができたのね」とは言わなかった。とぼけて言っていたのか。いや、とぼけではない。しかし、精神異常と言ってもどこまで異常なのか。ともかく、これからは同じ服を着てくるのはまずいと思った。
一抱えもするような箱から全長三十センチぐらいの新幹線を出すと康子が言った。
「こんな大きいのじゃないのよ。わからないのね。もっと小さい、ミニ新幹線よ。こんな大きなのと隆遊べないわ。お店に返してきて」
 靖雄はむっとなった。玩具売り場をあちこち探して、どれがいいか迷い迷いして、とっくに死んでしまったわが子のために、いや康子の心の平安のためにやっと買ってきたと言うのに。
「何言ってるんだ。もういい加減にしないか。隆は死んで、いないんだから」
「だから隆が死んだことを内緒にしておきましょって、何度も言ってるでしょ」
 何度言っても分からない。分からないと分かっていても、ついきつい言葉が出てしまう自分が情けなかった。担当医は、相手の話にわざと乗ることも必要だと言っていたが、それには限度があると思った。
 病院からの帰り、ハンドルが重かった。靖雄は康子が本当に死ねばいいと思った。死ねば自由だ。香水がどうの、隆がどうの、玩具がどうの、一切から解放される。康子と話せば話すほど、こちらの頭がおかしくなってしまう。早く死ねばいい。早く死なないか。陽子と結婚したい。陽子もそれを望んでいるようだ。
靖雄は陽子に、もしプロポーズしたら、受けてくれるか尋ねた。
「からかわないで下さい。後藤さん。奥様がいらっしゃるんでしょ」
「真面目な話だ。真剣に考えているんだ。離婚だってするつもりだ。だからさ。わたしは君のことばかり思っているんだ。一緒になれればどんなに幸せかと、いつも思っているんだ。現に、君がわたしの前に現れてから、大げさかもしれないが、人生が変わったんだよ。地獄から天国に昇ったようなんだ。信じてもらえないだろうが。本当に、本当に、世界が変わったんだよ。君がわたしの生きる力なんだ。君なしでは世の中、何の光もないんだ」
 陽子はじっと聞いていた。やや沈黙が流れて陽子は言った。
「それは、わたしも同じです。父を亡くしてからは後藤さんに会うまで、ただ父の影を追って生きてきたみたいなんです。ただ漫然と生きてきたんです。父を亡くした悲しみは時が経つに連れて薄らいでは来てますが、この十年、惰性で生きてきたようなんです。生きる力、生きる目的がなかったんです。父の力はわたしの力だったんです。後藤さんと一緒ならば、どれだけ心強いか、どれだけ幸せか…… 誤解しないで下さい。後藤さんを父親の代わりと思って言っているんではないんです。失礼ですけど、初めはそうでしたが、今は、父と後藤さんの違う点がいろいろ分かってきました。分かってきましたが、それでもわたしは後藤さんの魅力に勝てないのです。後藤さんを父親としてではなく、後藤さんを一人の人格として言っているんです。わたしも、毎日……」
陽子は急に言葉を詰まらせ、困惑した顔をして靖雄の目をじっと見つめて言った。
「後藤さん、もう止めましょう。いくらこんなことを話しても、後藤さんには奥様がいらっしゃるし……」
靖雄は決心した。何らかの形で、康子に死んでもらうしかない。そして陽子と結婚しよう。陽子もそれを望んでいる。しかし、どのようにして康子に死んでもらえばいいのか。外出許可をもらって、そのときに何かを飲ませるとか、事故に見せかけてとか。しかし、どれだけ考えても方法が思いつかなかった。
久しぶりに見舞いに行ったら看護師が言った。
「後藤さん、奥さんに言ってください。最近全然食べないんですよ」
 また看護師の苦情だ。黙って聞くしかない。
「頑として食べようとしないんです。歯を閉じてしまって。二人がかりで口をこじ開けて食事を入れているんです」
 靖雄はやつれた康子の顔を見た。目は空ろで、壁の一点を見ている。靖雄が見舞いに来ていることは分かっているようだ。
「康子、どうしたんだ。ちゃんと飯を食べないと身体に悪いから。身体が弱って病気になってしまうぞ」
靖雄は自分の本心を康子に見抜かれているのではないかと思いつつ言った。
「何を考えているんだ、康子、看護師さんに苦労をかけて。申し訳ないと思わないのか」
看護師の手前、必要以上に強く叱った。
「ちゃんと食べるんだよ。身体が弱って死んでしまうぞ。頼むから食べてくれ」
 康子は視線を靖雄の方に向けたが、靖雄の目に焦点が合っていない。目が窪み、顔は異様に青白かった。げっそりと痩せてしまった。腕などは枯枝のようだ。靖雄の方を見ているだけで口を開こうとしない。
「康子、どうしたのだ。なんか言ったらどうなんだ」
「……」
「康子、どうかしたのか……」
「……死んだほうが、いい」
 康雄はギクッとした。まさか自分が思っていることが分かるわけはないのに。
「何言ってるんだ。ちゃんと食べて、元気になって、早く退院しよう」
「死ぬ、死ぬ、わたしは、死ぬの、隆が、来ない、みんな、どこかに、行って、しまう」
 みんなどこかに行ってしまうとはどういうことだ。俺が陽子のところに行ってしまうということなのか。隆が死んでしまったことなのか。康子の友達から音信不通になってしまっていることなのか。康子の母親が、隆が生まれて一年後に心臓病で亡くなったことなのか。
 この先どうなるか考えた。病院側も康子には手を焼いているようだ。他の患者より手間がかかるようで、それが看護師の仕事だと思っても、心苦しいものがあった。康子、一体どうしたらいいのだ。康子のことを考えると世の中のことが本当に嫌になった。もう、死にたければ、死ねばいい。俺は知らない。もうお前には付き合っていられない。疲れる。そんなに俺を苦しめないでくれ。俺の方が死にたい。

「あなた、ごめんなさいね。隆ちゃんが死んでるのに、変なことばっかり言って。でも、なにか頭の中のもやが急にぱっと飛び散ったみたいなの。きちんと物を考えることができるようになったみたい。今日ね、先生がもう退院していいとおっしゃったの。長い間本当に苦労をかけました。家事も大変だったでしょう。私がやりますから。ご心配かけました。本当にごめんなさいね。また夫婦仲良くやっていきましょうね」「えっ、康子、お前、治ったのか。そんな急に治るのか」靖雄は夢を見ているのかと思った。が、一瞬困った。陽子と別れることになるのか……

電話のベルの音で靖雄は目を覚ました。夜中の一時だ。
「後藤さんですか。こちら小笠原病院です。康子さんが危篤です。すぐ病院に来てください。はい、そうです。小笠原病院です。はい、後藤康子さんです。ご主人ですね。すぐ来てください」
靖雄は映画の一シーンを見ているかと思った。小笠原病院。後藤康子。間違いない。
タクシーを呼んで一時間後に病院に着き、急いで康子の病室に駆け込んだ。院長、担当医、看護師二人が一斉に靖雄の方を振り返った。康子は酸素マスクをつけていた。院長が低い声で言った。
「ご主人ですか。残念ですが、たった今息を引き取られました」
 そんな馬鹿なことってあるのか。一週間前、見舞いに来たとき、元気だったのに。一体どうしたというのだ。
「心不全でした」
 靖雄は頭を強く打たれたような衝撃を感じた。何も聞こえない。何も見えない。身体が、手が、足が震えた。そんなことってあるのか。そんなことって…… 三十五歳で心不全なんて。
康子の顔を見た。眠っている。眠っているだけだ。ただ眠っているだけだ。
一瞬、康子の葬式の情景が目に浮かんだ。祭壇に康子の写真。次の瞬間、陽子の顔が頭をかすめた。陽子と結婚……
俺は、なんという恐ろしい奴だ。最低の人間だ。いや、人間以下だ。康子が亡くなったばっかりというのに。陽子のことが頭に入り込む隙があるなんて。一体この隙は何なのか。これが普通の人間が普通に考えることなのか。俺は異常ではないのか。正常なのか。
葬式が終わって、病院から届いた康子の私物を整理していたら手帳が出てきた。手帳にはメモ程度の簡単な日記がほとんど毎日書かれていた。内容は隆のこと、看護師のこと、担当医のこと、同室の患者のこと、入浴や洗濯のこと、食べ物のこと、昔の思い出、心の葛藤などだ。最後に見舞いに行ったのは康子が亡くなる一週間前だったが、その日の日記にはこう書かれていた。日記はこれが最後になっていた。

五月二十日
やすおさん 見まい
いいにおい 
行かないで いかないで

靖雄は「いいにおい」の意味が何の匂いか分からなかった。まさか陽子の香水ではないだろう。あれ以降は陽子に会った時の服とは違う服を着るようにしているから。病院の窓から入る新緑のにおいか。部屋に飾ってある花の匂いか。いや、「靖雄さん、見舞い」と連動して、この前康子が言っていた「いい匂い」のことを思い出したのか。「行かないで」が二度も繰り返されている。誰がどこへ行かないで、なのか。隆に言っているのか、俺に言っているのか。隆はよく康子の目の前に現れるから俺のことか。俺が行かないでとは、陽子のところへ行かないで、と言っているのか。いや、現れた隆が去っていってしまうのを引き止めているのか。みんな私を置いてきぼりにしてどこかへ行かないでと嘆願しているのか。
 靖雄は手帳の文字をじっと見た。康子の文字だ。最後の文字だ。懐かしい文字だ。すらりとした縦長の滑らかなきれいな女性的な文字だ。始めて康子から来た手紙のことを思い出した。康子の父親が結婚を反対しているけれど靖雄と一緒になりたいということが書いてあった。初めて康子に会ったときのことを思い出した。康子が二十歳で、靖雄が二十四歳だった。乗っていたバスが急停車し、つり革につかまっていなかった靖雄は、座っていた女性の膝の上に倒れてしまった。その弾みで女性が膝の上に乗せていた紙袋が破れて床に落ち、中身がバスの床にばらばらと転がり落ちてしまった。靖雄は「すみません」と言って拾おうとしたが、すぐ女性は座席を立ち、「すみません、わたしが拾いますから」と言って拾い始めた。靖雄が会社に着いてしばらくしたら、先ほどの女性と廊下でばったり会った。それが康子だった。
 結婚して、隆が生まれて…… 二人で仲良く暮らした当時のことが今はっきりと懐かしく思い出された。
 隆を亡くして自責の念に苦しみ、毎日、毎日泣いていた康子。霊柩車に小さな棺を載せるとき、棺を両手でしっかり抱え、覆いかぶさるようにして大声で泣きじゃくった康子。図書館から借りてきた紙芝居を、登場人物になりきって隆に読んでやった康子。康子のために俺はどれだけのことをしてやったのだろう。隆を亡くして気が狂わんばかりになっていた康子をもっと支えてやるべきだった。俺は会社があるから仕事のことで気がまぎれることがあったが、康子はそうはいかなかったのだ。もっと康子のためにしてやるべきことがあったはずだ。俺が康子を病気にしてしまったようなものだ。すまん、康子。
お前が逝ってしまって、お前の存在の大きさに今初めて気がついた。お前が俺のそばにいること、お前が生きていること、たとえ精神病でも、お前がこの世に生きていることは当然のことと思っていた。陽子との結婚のことは、単なる逃避だった。お前が入院している状態で、お前が生きている状態で陽子と結婚することを考えていたのだ。虫のいい話だ。精神病であってもお前が生きているということは、いろいろ不満があったが、生きているだけで、長年苦楽を共にしたということが、空気や水のようにわたしの大きな生きる力となっていたのだ。それに気が付かなかった。許してくれ康子。俺はどこにも行かないよ。
靖雄はシンガポールへの転勤願いを出した。



                       終り

          

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