2010年1月12日火曜日

閉ざされた窓

 真夜中なのに蝉がけたたましく鳴いた。靖雄は目を覚ました。胸が苦しい。体が動かない。ベッドに縛られているようだ。水が飲みたいと思ったが、水を持ってきてくれる者はいない。妻は三年前に亡くなり、娘は神戸に嫁いでいた。
また蝉が不気味に鳴いた。その瞬間、ベッドが揺れ、体が浮き、気が遠くなった。

         ***

気がつくと靖雄は六十階建てのビルの屋上に立っていた。飛び降り自殺をしようとしている。また同じ夢だ。どうして同じ夢を何回も見るんだ。なぜ投身自殺しなきゃならんのだ。自殺をするにしてもなぜ飛び降り自殺なのか、と自問しているうちに靖雄は不可解な力に押されてビルから飛び降りる。
まっ逆さまだ。猛スピードで落下している。しかし手足や体全体がスローモーション映画のようにゆっくり動いている。無重力状態の宇宙飛行士のようだ。怖くない。落下ではなく浮いている感じだ。風は横殴りなのに、身体は飛び降りたビルの壁に沿って垂直に落下している。
周りの景色がよく見える。遠くに見えるのはどこかの港だ。海が夕日に照らされてオレンジ色に光っている。汽船が見える。米粒のようだ。視線を反対に向けると、真っ赤な夕陽が、紺色の山並みのシルエットにかかり、今日最後の光を眩しく放っている。雲雀が靖雄を見て驚いて飛び去っていった。目の前のビルの白い壁は、夕陽に赤く染まっている。
降下するつれ、ビルの窓が次から次ぺと上昇していった。不思議なことに、どの窓枠にも縦一メートル、横一メートルぐらいの垂れ幕がぶら下がり、幕には各階数が大きな文字で書いてあり、今どの階を降下しているのかが分かった。
五十七階を落下していく時、窓の中を見た。中がよく見えた。喪服を着た二人の中年の男が布団のそばに頭をうな垂れて座っていた。二人ともほぼ同じ年齢に見えた。布団に横たわっている人の顔には白い布がかぶせてあった。
あの二人の父親か母親が亡くなったのだろう、と思った。二人の内の一人は知り合いのような気がしたが、いつどこで会ったか思い出せなかった。もう一人の方の顔はぼやけていた。
夕陽の下半分が山に沈んだ。静かだ。風の音も聞こえない。残った上半分もしばらくして沈んだ。同時に全ての長い影が一斉に消え、夜の帳が下りた。次第に空は黄色や赤に染まり、山には黄金色の雲がかかった。
五十三階の窓を覗くと、結婚披露宴が見えた。マイクを持った太った男がお辞儀をし、皆から拍手を浴びていた。祝辞が終わったところらしい。
たった今五十七階で喪に服す光景を見て悲しくなったのに、今度は新婚カップルを見て気も晴れやかになった。客は飲んだり食べたり、楽しく笑っていた。客のうちの一人の中年の男は見覚えのある男だ。しかし誰だか思い出せない。その男の隣にも同じような年格好の男が窓に背を向けて座り、二人は談笑していた。
あたりが暗くなった。地上を見ると、ビルの明かりがあちこちにともり、やがて星空のように無数に明かりが灯った。入り組んだ道路には黄色のヘッドライトや赤いテイルライトの流線が見えた。ゴマ粒のような車は音も立てずに走っている。先ほどまで眼下に見えた山々は、靖雄が飛んでいる高さより高くなった。海はビルに隠れて見えなくなった。
今や大小、正方形、長方形等さまざまな形をしたビルの屋上が見えてきた。落下するにつれ屋上が近づき、屋上にある水槽や、広告看板や、入り組んだ換気用ダクトも見えてきた。建設中のビルもあり、鶴の首のようなクレーンが屋上にあった。ミニチュアのビル群を、丁度着陸寸前の飛行機の窓から見ているようだ。
四十階まで落ちてきたとき悲痛な叫び声が下の方から聞こえてきた。三、四階下を見ると男がベランダ越しに手を下に差し出し、今まさに落ちようとしている別の男の手をしっかり握り、必死で引き上げようとしていた。靖雄は三十五階まで落下して二人の男のところを通過する時「頑張れ!」と叫んだ。三十階まで落下した時、上を見ると、ぶら下がっていた男は丁度引き上げられるところだつた。良かった……。しかし一体何があったのだろうと靖雄は思った。
二十八階から雅楽のような曲が流れてきた。神前結婚の最中だ。このビルは結婚式場が二十八階で結婚披露宴会が五十三階にあるから、結婚式を挙げるには不便なビルだなと思った。しかし、そんなことはどうでも良かった。新婦を見たが、後ろ姿しか見えなかった。髪をアップに結い、真珠のように真っ自なウエディングドレスを着て二人の可愛い女の子が長い裾を持っていた。
落下速度が急に速くなった。見下ろすと蟻のように小さい人が道路を歩いていた。歩行者の一人が空から降ってくる靖雄を発見し、目と口を大きく開いて何か叫んだ。叫び声は車の雑踏にかき消されてよく聞こえなかったが、「人が降ってくるぞ!」と叫んでいるようだ。他の通行人達が驚いて一斉に顔を上げるのが見えた。人だかりが増えてきて靖雄を見ている。もう少しであの群集の真ん中にたたきつけられるのだ。これで終りだ。
靖雄はこれが窓の中を見る最後だと思って、十階の窓を覗いた。兄弟らしい男の子が二人、割り箸で作ったピストルで輪ゴムを飛ばして遊んでいた。三メートルぐらい離れたテーブルの上に立ててあるマッチ箱を狙っている。兄は的に当たらなかったが、弟はうまく当てた。兄のほうはよく知っている子で、どこかで見たようだが、弟のほうはよく分からなかった。
今や墜落死まであと九階分しかなかった。道路を見ると、先ほどまで集まっていた群衆は靖雄が落ちる地点から飛び散っていた。「危ない! 落ちるぞ!」と誰かが絶叫するのが聞こえた。
靖雄が急降下するにつれ、窓枠の垂れ幕に書かれた階数の数が減っていった。
九階… 八階… 七階… 六階……
今にも頭蓋骨が紛々に割れ、血まみれになって死ぬのだ。
五階… 五階… 五階。
 不思議なことに落下が止まった。止まって宙に浮いている。空を見上げていた群集も狐につままれたような顔をして、靖雄を見ていた。
五階の窓を見ると、窓は閉じられ、厚手の黒いカーテンが引かれていた。
分かった。あのカーテンが閉じられて中が覗けないから、落下がここで止まったのだ。死ぬ前に五階の部屋がどうなっているか知りたい。それにはこのビルの五階に行かなくてはならない。空中移動もできないし、地面にどうやって降りるのだろう。
その瞬間、靖雄は目が覚め、地上を歩いていた。見覚えのある池と神社があった。ここで蝉をよく採ったことを思い出した。歩いていると飛び降りたビルが見えた。五階に行ってカーテンを開けなくてはと思った。
五分ぐらい歩くとビルに着いた。エレベーターで五階まで昇り、ビルの西側に行った。閉じられた窓の部屋がビルの西側にあり、夕陽を映していたからだ。しばらくして部屋を見つけた。
扉は開いていた。中は薄暗く誰もいなかった。窓は落下中に見た黒い厚手のカーテンが引かれていた。カーテンを両側に引き、窓を開けた。まぶしい光が入り部屋が明るくなった。靖雄はなんだか気がほっとして眠くなってきた。
また同じ夢を見た。六十階建てのビルから飛び降り、各階で同じ光景を見、やがて十階まで降下した。同じ二人の男の子が玩具のピストルで遊んでいた。十階を落下しながら自分の子供のころを思い出した。
* * * * *
当時、靖雄の家族はアパートの四階に住んでいた。靖雄には隆司という名前の弟がいた。しかし隆司は靖雄が五歳の時、アパートのベランダから落ちて死んでしまった。
ある時どのようにして弟が死んでしまったか母に聞くと、母は「悲しくなるから聞かないで」と涙ぐんで言った。だからそれ以来聞くのを止めた。ただ分かっているのは隆司は靖雄が五歳の誕生日の翌日に死んだことだった。何かこの日に起こり、そのため隆司は死んだのだが、何が起こったか靖雄は記憶になかった。
隆司が死んだ日に靖雄は突然熱を出し、熱は丸二日続いたと、母が言ったことがあった。熱が下がったとき、靖雄は記憶喪失症にかかり、その日まで起こったことを何も思い出すことができなくなっていた。四歳と五歳の二年間幼稚園に通ったが幼稚園のことも何も思い出すことができなかった。しかし靖雄の親は、靖雄の生活に何の支障もないので記億喪失のことは気にしなかった。忌まわしい日以降のことは通常の記憶があったからだ。
* * * * *
靖雄は子供の頃を思い出しながら落下し、九階を通り過ぎた。それから八階、七階、六階と落下してきた。五階に来た時窓を見た。窓は開いていた。今だ! と思って中を覗いた。
部屋には二人の男の子が遊んでいた。一人はなんと靖雄自身だった。もう一人は弟の隆司だ。靖雄は五歳の誕生日にもらった玩具のパトカーで遊んでいる。誕生日の夜はパトカーを抱いて寝たのを思い出した。
これはどうしたことか。記憶がよみがえってきた。誕生日の翌日のことが思い出されてきた。
母が「靖雄、台所手伝ってよ」と言った。靖雄は立とうとした。隆司が靖雄に近づいた。靖雄のパトカーを取った。ベランダに走つて行った。ベランダには木の箱が積んであつた。靖雄は隆司の後を追った。靖雄が隆司に近づいた。隆司は木の箱に登った。パトカーをベランダから放り投げた。靖雄は隆司を押した。隆司はベランダから落ちていった。
「靖雄、台所に来なさいといっているでしょ」と言いながら母がベランダに来た。母はベランダの下を見た。悲痛な叫び声をあげた。弾の鳴き声が急に聞こえた。
靖雄は凍りついた。今、五階の窓で見たのは一体なんだったのだろう。俺は隆司を押すのを見たが……。
この瞬間、靖雄の記憶を五十五年間閉ざしていた黒い雲が晴れた。靖雄はその日にベランダで起こったことをすべて思い出した。そうだ、俺が隆司を押したのだ。あの時母がベランダに来て、「隆司が落ちたよ」と母に言ったのだった。
靖雄は驚愕した。たった一人の弟に対して自分がしたことが信じられなかった。あと何分の一秒かで地面にたたきつけられるという刹那に、おぞましくも記憶の重い扉が開かれ、ベランダから落ちる隆司の姿がスローモーションとなって今くっきりと靖雄の眼前に現れたのだ。靖雄は隆司に謝った。許してくれ。許してくれ。年のせいで涙もろくなった目から涙が流れてきた。涙は靖雄の体と同じスピードで落ちていった。
 お母さん、僕が靖雄を押したんだ。だって、お母さんは僕に、「悪い子ね、お兄さんの癖に。お兄さんだから我慢しなさい。隆司をいじめるんじゃないの」としょっちゅう言っていた。「靖雄なんか生まなきゃ良かった」と言ったこともあった。隆司が憎らしかった。あの日も隆司が、僕の大事なパトカーを取って逃げて行き、ベランダから投げてしまったのだ。もう我慢できなかったんだ。僕は隆司がいなければいいと思っていたんだ。だから押したんだ……。
靖雄は母と隆司に詫ぴた。お母さん、僕が隆司を押したんだ。ごめんなさい。隆司、痛かったろう。許してくれ。大粒の涙が頬を伝って空中に落ちていった。 
落下しながら次々に窓から見た部屋の意味が解き明かされた。各階は靖雄の年齢なのだ。
五十七階で遺体のそばに中年の男が二人座っていたが、一人は靖雄自身で、もう一人は隆司だ。隆司が生きていればあんな年恰好になるはずだ。布団に横たわっていた人は母だ。母は私が五十七歳の時亡なったから。
五十三階の結婚披露宴は娘が結婚した時のものだ。あの時私は五十三歳だった。私が談笑していた相手は隆司だ。。
三十五階のベランダで身体を乗り出してぶら下がっている男を必死で引き上げていたのは私自身だ。あれは隆司を助けたいと言う願望の現れだ。でも、どうして三十五階なのだろう。そうだ、三十五歳の時、槍ヶ岳で崖から転落しそうになったことがあった。友達が私の手を掴んでいなかったら、滑って転落死しているところだった。
私は二十八歳で結婚した。だから二十八階で結婿式を見たのだ。あの純白の花嫁は妻だ。
十階で玩具のピストルで遊んでいた二人の男の子は私と隆司だ。隆司が生きていればあの子ぐらいだ。
それから、あの五階。私が五歳だった時の恐ろしい光景だ。
しかし、もうおしまいだ。今にも地面にたたきつけられて血だらけになって死ぬんだ。胸が苦しい。
隆司、隆司、お前はずっと俺と一緒に今日まで生きてきたなあ。私はこの五十五年間ずっとお前と一緒だったんだよ。飛び降り自殺をするわけが分かった。罪の償いだ。お前と同じ痛みを感ずるためだ。そちらに行つたら、一緒に玩具のピストルやパトカーで遊ぼうな。お母さん、ごめんなさい。もう時間がない。死が目前だ。
また涙が頬を伝わった。靖雄は涙を拭おうとした。

      * * * 
 
靖雄は心臓麻痺で死んだ。ベッドから落ちていた。頬が涙でぬれていた。

                     おわり

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