2010年1月12日火曜日

たぬ公に導かれて

 名古屋に来ることは何度もあったが、興正寺の境内に入るのには抵抗があった。今日は行こう、今日こそは、と思いつつ二十五年たってしまった。特にこんな新緑の美しい日には行きづらかった。
しかし還暦を過ぎた今日、不思議な力に導かれて興正寺まで来てしまった。
寺門を入ると五重塔があった。ああ、懐かしい。全然変わっていない。感慨に浸りながら五重塔を見上げていると、「隆さん」と言う声がする。
振り向くと、可愛い狸がちょこんと足下に座っている。前足を犬がチンチンするようにあげて、わたしを見つめている。昔この辺りは八事の森と言って原生林が生い茂り、狸や兎が住んでいたそうだ。しかし、二〇〇八年に狸がいるとは、どこから出てきたんだろう。この狸がわたしを呼んだのだろうか。
「えっ、まさか。お前が呼んだのか」
「ええ」
「えっ、お前、言葉しゃべるのか」
「しゃべりますよ、おみゃあさん」
「おみゃあさん、って。ええっ」
「なんも、驚くことなんかありゃすきゃ」
 なんというドギツイ名古屋弁。夢じゃないのか。狐に、いや、狸につままれたのか。
「隆さん、よういりゃあした」
「隆さん、て。どうしてわたしの名前を知ってるんだ」
「何言ってりゃあす。水臭いでいかんわ。わっちは、この四十二年間いつも隆さんのそばにおるぎゃ」
「四十二年間? 俺が、えっと、十八のときから知っとるんか」
「ええ、そうだぎゃ。まあ、そんなこと、もうええから、さあ、こっちに行こみゃあ」
 と言って、本殿の左手にある石段の方にわたしを案内した。そう言えばこの狸、どっかで見た。へその回りに変な輪がある。
狸はぴょんぴょん石段をあがっていく。十段ぐらい上がると、わたしの方を振り向いて待っている。
「そんなに急がんでくれ。息切れがするわ」
「何言っとりゃあす、隆さんが高校の時、この石段を筋トレで、走って登ったり下ったりしとったがね」
 そう言えば、N高校のバレー部の筋トレで校門を出てから隼人池を通って、興正寺まで走った。それからこの石段を駆け足で登った。石段は七十七段あった。
ハアハア言いながら、やっと石段の頂上までたどり着くと、辺りは真っ暗になっていた。小さなお堂があり、左手に鐘楼があった。鐘楼には「除夜」と書かれた丸提灯が二つぶらさがり、明かりが灯っていた。ざわざわする人の声が聞こえる。粉雪が舞っている。
「こりゃどうなってんだ。雪だよ」
「何言っとりゃーす、今日は大晦日だぎゃ」
 狸のたぬ公は、何でもすぐ「何言っとりゃーす」とくる。馬鹿の、いや、狸の一つ覚えだ。でも、さっきは五月の昼過ぎだったのに、どうして大晦日の真夜中なんだ。
「さっきは昼だったのに、どうしてここは夜なんだ」
「今日の興正寺はよー、場所が変わると時間も変わるんだわ」
たぬ公の言うことは、さっぱり分からん。鐘楼を見ると、二十人ぐらいの人が一列に並んでいる。そうだ、みんな除夜の鐘を突きに来てるんだ。
あっ、今、鐘楼に入ったあの若いカップル、あの男は……わたしだ。すると彼女は洋子だ。新婚当時の二人だ。
二人で鐘突き棒の紐を持って、そら、ぐいっと引いて、そら、離して、
「ごおおーん」
そばでお坊さんがお経を読んでいる。粉雪が提灯の明かりの中で舞っている。

 洋子と始めて会ったのはN高校男子部の保健室だ。その日わたしは朝から下痢気味だった。受験勉強疲れだ。三時間目の授業中に急に腹が痛くなり、先生の許可をもらって保健室に行った。養護の先生に薬をもらって休んでいた。電話がかかってきた。先生は「職員室に行ってくるから、清水君、そこで休んでなさいね」と言って出ていってしまった。
そこにN高校女子部の生徒が二人飛び込んできた。その日は女子部の体育祭が男子部のグランドで開かれていた。一人は手と腕が土まみれで、血が腕を伝って流れていた。一滴、床に落ちた。もう一人の生徒は付き添いだった。
わたしはあわてた、養護の先生がいない。何しろ男子部と女子部は中一から高三まで別学だ。私は高三の今まで女の子とまともに話をしたことがない。だいたい当時は男女交際は禁止だった。八事行きの市電の中で女子部の生徒は座っていても、立っている男子部の生徒の鞄を持ってはいけない、という規則があった。女子高生を二人も目の前にして緊張した。
「あの、えっと、保健の先生、あの、今、職員室ですが、あの、どうぞ、手を洗って下さい」
しどろもどろで流し台を指差した。怪我をした生徒は土を洗い流した。
「このタオル使っていいですか」
付き添いの生徒が尋ねた。
「はあ、あの、えっと、どうぞ。確か、えっと、消毒液と、あの、綿がこの辺にあったと思いますが」
 私は保健室に中一の頃から何度も腹痛で来ていた。だから消毒液や包帯がどこにあるかぐらいは知っていた。
白いキャビネットを開けて、丸い金属製の容器から消毒液とヨードチンキを出し、引き出しから綿を出した。
付き添いの生徒は「すみません」と言って受け取り、傷口に消毒液をかけ、綿で抑えて止血した。わたしは包帯とバンドエイドを付き添いに渡した。
「あの、体育祭で転んだんですか」
怪我をした生徒に尋ねた。
「ええ、クラブ対抗リレーで」
これが洋子がわたしに言った最初の言葉だった。
「クラブって、あの、何部ですか」
「バレー部です」
「えっ、僕もバレー部ですよ」

「隆さん、何をぼーと考えとりゃぁす。滑り台にいきますよ」
狸が横槍を入れた。
鐘楼から坂道を南の方に降りていくと右手に小さな公園があった。桜が満開だ。また季節が変わった。
公園に高さ四メートルほどの円錐台の富士山があった。すそが広がっていて、子供はすそから勢いをつけて頂上めがけて走り、富士山のてっぺんに上るのだ。
 たぬ公が生意気に一気に登ってしまった。
「隆さん、登ってりゃあせ」
「この歳で、そんな恥ずかしいことできるわけないだろう。」
「何言っとりゃあす、広ちゃんがまだよちよち歩きのころ覚えとりゃあすか。隆さんが富士山のてっぺんにいて、洋子さんが中腹まで広ちゃんを押していって、隆さんは、上から広ちゃんの手を取って引っ張り上げたぎゃ」
広ちゃんとは今年三十四歳になるわたしの長男だ。
「狸の癖に、良く覚えとるなぁ。あのころは楽しかった」
「よう言うわ。それからが大変だったの、もう忘れちまったのきゃ。富士山をおりて、今度は、広ちゃんと滑り台に登ったがね」
 そうだ、あの時、広隆が階段を一歩一歩登り、すぐ後ろからわたしが登っていった。滑り台の上に着いて、「広隆、ここにいるんだよ。まだ滑っちゃだめだよ。ここにつかまって」と言って、広隆の手を取って鉄枠につかまらせた。広隆をそのままにして、わたしは階段を素早く下りて、滑り台の降り口に回り、広隆を見上げて言った。「さあ、もういいよ。広隆、滑って、滑って」。ところが、広隆は滑るのを怖がった。泣き出して後すざりしだした。危ない! 階段の方へわたしが駆け寄った。広隆が階段をバウンドして真っ逆さまに落ちた。ウワーン。公園中に泣き声が響いた。トイレから洋子が戻ってきた。
「どうしたの、あなた」
わたしは広隆を抱かえて、うろたえた。
「滑り台から落ちた」
「えっ、どうして? 骨、折ってない?」
「頭を打ってるかも」
「まあ」
「病院に行こう」
タクシーが来ない、ちっとも来ない。洋子が広隆を抱きしめた。
八事日赤病院で頭のCTスキャンをした。異常はなかった。手も足も折れていなかった。洋子はわたしをにらみ、「もう、あなたなんかに子守はさせられない」と言って、唇をキッと結び、身体を振るわせた。

「そら、隆さん、またぼーとして、今度は本殿に行くでよー。ちゃんとわたしに付いて来てちょうよ」
 たぬ公は本殿の方に走っていった。
「おーい、そう急がんでくれ」
「早よ行かんと、豆がなくなっちゃうでよぉ」
「豆って」
「節分の豆だぎゃ」
「えっ、さっきは桜が咲いとったのに」
「だから、さっき言ったぎゃ。場所が変わると季節も変わるって。ちゃんと聞いとってえな」
 本殿の正面に四メートル四方の舞台が作ってある。舞台の上には裃を着た人が五、六人、枡を持ち、豆をまいている。
広隆だ。六歳の広隆が可愛い裃を着て豆をまいている。洋子もまいている。わたしは恥ずかしくて、舞台には上がらなかったんだ。そら、わたしのところへ豆が飛んできた。みんな、わあわあと両手を差し出し、きゃあ、きゃあと豆をキャッチし、豆を拾っている。たぬ公はみんなの足の間を器用にすり抜け、すり抜け、豆を拾って食べている。
豆まきが終わって広隆と洋子とわたしの三人で豆を食べていると、たぬ公が帰ってきた。
「ああ、いっぴゃあ食べた。腹ポンポンだわ。そら、いい音だよ。聞きゃあせ」と言って、腹鼓を打ち出した。
ポンポコポンのスッポンポンポン
ポコポコポンのスッポンポンポン
広隆が真似をしだした。洋子が笑った。
「分かった、分かった。いい音だ。で、今度はどこに連れてってくれるんだい」
「さあて、どうしよまい。そんなら、デートコースに行こみゃあ」と言って、たぬ公は五重塔の東側にある幅八メートルぐらいの道の方へ歩き出した。
 道の両側に紅葉した木や常緑樹が林立し、道に覆いかぶさっている。ちょっとした森だ。たぬ公は二十メートルぐらい進むと右側の急な坂道を登りだした。
「隆さん、こっちこっち。洋子さんが待っとるで」と言って、わたしを急がす。
やっと坂道を上がってそこから東に向かって細道を歩くと、洋子とわたしが丸太のベンチで仲良く勉強していた。

 N高校の保健室で始めて洋子に会った翌日のことだ。学校帰りに南山教会の前の交差点で洋子にばったり会った。洋子はこれから三洋堂で数学の参考書を買うと言う。
「数学が苦手で苦労しているの」
「そうですか、僕は数学が大好きなんですよ。なんなら教えましょうか」 
どぎまぎせずに言えた。わたしは数学はK塾の全国模試で上位二十位には常にランクされていた。ところが英語が全然できない。洋子は英語なら大丈夫、と言うことで、わたしが洋子に数学を、洋子がわたしに英語を教えることになった。場所は興正寺。時間は土曜日午後二時。五重塔に集まることにした。洋子の英語力は抜群だった。仮定法過去完了、擬似関係代名詞、なんでも説明してくれた。
洋子は上智大学へ、わたしは名古屋大学に進学した。交際は続いた。

 たぬ公がベンチに寝そべって空を見上げている。鼻提灯をふくらませて。雲ひとつない真っ青な秋空だ。紅葉した木の葉が風に吹かれてハラハラと狸の腹に舞い降りてくる。わたしも隣のベンチで上向きに寝そべって空を見た。いい天気だ。

 洋子の父親は内科医で、母親は耳鼻科医だった。祖父も医者で、親戚にも医者が多かった。当然、洋子の親は洋子を医者に嫁がせようと考えていた。洋子が二十三歳の時見合いの話があり、洋子は親の手前、二回見合いをしたが断った。その時始めて親はわたしのことを知った。洋子の両親ともに、サラリーマンとの結婚に大反対で、交際を止めるように洋子に迫った。洋子は親のいいなりになることを拒み、家を飛び出してしまった。洋子の意思は強く、母親が折れ、父親もついに折れた。
わたし達の新居は興正寺から歩いて十分ほどのアパートだった。

「隆さん、起きやーせ。まんだ、もう一つ行くところがあるでよぉ」
たぬ公はいつの間に起きたのか、寝そべっているわたしの顔を覗きこんでいた。たぬ公の目はまん丸で黒く、ひげは墨で描いたようだ。とうとう行くんだ。そこに行くのが怖
くて何度も興正寺までは来る機会はあったが、ついつい境内に入りそびれていたのだ。でも、ここまで来てしまったから。
「隆さん、わっちがついとるがね。でゃあ丈夫、でゃあ丈夫」
 たぬ公はすぐ先の急な坂を降りだした。坂を降りると先ほどの幅八メートルの森の道に出た。ここは新緑の木が茂っている。葉っぱがキラキラ輝いている。木の匂いがする。この道を東に進むと中京大学の裏手に通ずる。
「さあ、もうすぐだで」
わたしは覚悟を決めた。道の前方に車椅子を押している人がいた。あれはわたしだ。わたしが洋子を車椅子に乗せて押している。ゆっくり、ゆっくり。
うぐいすが鳴いた。
「まあ、うぐいすが鳴いたわ」洋子が言った。
「うん、いい声だね」

 洋子は広隆の九歳の誕生日がすぎた頃から顔色が悪くなり、鼻血を出したりするようになった。疲れが原因と思っていたが、ある日、腕にあざのような斑点があちこちにできていた。八事日赤病院で診察してもらった。即、入院だった。
 わたしは担当医に呼ばれ、洋子は白血病で、あと三ヶ月ぐらいの命だと宣告された。
 そんな馬鹿な、そんな馬鹿なことってあるのか。一体どうして。広隆が可愛そうだ。まだ九歳だ。親子三人で楽しく過ごしてきたのに。義父母も広隆が生まれてからは、険しい顔つきが、穏やかになったのに。これからと言うときに。どうしたらいいのだ。これからどのように生きていけと言うのか。親戚に知らせるべきか。あと三ヶ月とは。信じられない。どうして洋子が。どうして白血病に。足がしっかり地面を踏めない。歩いていても前方の景色が幻のようだ。浮いている。現実ではない。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。飯がのどを通らない。眠れない。仕事が、何がなんだか、なぜだ、どうして。夜が怖い。涙も出ない。
広隆と毎日見舞いに行った。洋子は、やつれて、青白く、苦しそうで、痛みをこらえ、吐き気に悩まされ、点滴を受け、薬を何度も飲み、髪がぬけ、広隆の手を握り、涙をこらえ、無理に笑い、学校のことを聞き、横を向いて泣き、涙を拭って、広隆の顔を見て、わたしの顔を見て、「広ちゃんが、結婚するまで死なないからね」か細い声でわたしに言う。
三ヶ月たったある日、洋子は興正寺に行きたいと言った。外出許可をもらって、タクシーに車椅子を積み込んで興正寺に行く。
興正寺に着いて、洋子を車椅子に乗せた。五重塔を見て、中京大学の裏手に出る道を通って、ゆっくり、ゆっくり車椅子を押す。新緑の五月だ。
「隆さん、覚えてる? あなたに始めて会ったとき」
「ああ、覚えてるよ。お前が体育祭で怪我をして」
「ええ、あのとき、あなた、顔色が悪かったわ。とても」
「実は、あのとき腹痛で保健室にいたんだ。そこへ、お前が入ってきて」
「そおなの、だから、保健室に、いたのね」 
「そう、腹痛でね」
うぐいすが鳴いた。
「まあ、うぐいすが鳴いたわ」
「うん、いい声だね」
「あなた、保健室で、わたし達を見て、どぎ、まぎ、してたわ。取り、乱しちゃって……なんか、わたし、お、も、し、ろ、くって……」
「女の子と話したことがなくってね。純情だったてことーー」
 洋子の首がカタンと前に倒れた。それが最後だった。

中京大学の裏手に来た。ここで興正寺とお別れだ。山手通りの車の騒音が聞こえてきた。木の匂いが排気ガスの匂いに変わった。
振り向くと、たぬ公が手を振っている。
「さよなら。またいりゃあよ」
「ああ、また洋子に会いに来るよ」
たぬ公の体が半分消えかかっていた。
東京の家に帰った。リビングルームに行くと孫の博が木彫りの狸を持っていた。あれっ、たぬ公じゃないか。
「その狸どこにあったの?」
「あそこ。ママに取ってもらったの」
博は飾り棚を指差した。
そうか、洋子が高山に行ったとき、お土産に買ってきてくれた狸だったのか。         
              
     了
                                            
      

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