2013年11月15日金曜日

九割紳士と一割娘


九割紳士と一割娘

                              

「もう我慢できない。早く外に出たい」と缶太は思った。自販機に押し込められてからまる二日経っている。

足音が近づいてきて、自販機の前で止まった。どんな人だろう。子供か、大人か、おじんか、おばんか。

チャリンと音がした。十円玉だ。続いて百円、それから十円。

「今度こそ僕の出番だ」と缶太は意気込んだ。次の瞬間、身体が一回転し、急降下して、ガツンと尻餅をついた。痛たたたた……。

「グッドラック、カンタ、バイバイ」と缶吉が言った。

買い主を見ると立派な紳士だ。品のよい顔立ちで背が高い。歳は五十前後か、暑いのにスーツをきっちり着こなし、ネクタイはライトブルーのストライプだ。黒の革靴がよく磨かれている。良かった、いい人に当たった。変な人に当たると、飲み終えられてから溝なんかに捨てられてしまう。そうなると「一缶」の終わりだ。ラッキーと思い、缶吉にサヨナラした。

缶太は紳士の左手に握られて、紳士が歩くにつれて中のコーヒーがぽちゃん、ぽちゃんと揺れ動いた。歩き方がまた格好いい。背筋を伸ばしてリズミカルだ。洗練されているんだなぁと思った。

「冷たいうちに飲まないと、ぬるくなっちゃうよ」と、缶太は気をもんだ。

しかし、紳士は飲もうとしない。スマートフォンの着信音が鳴った。紳士はポケットからスマホを右手で取り出した。

「もしもし、安藤です。オウ、ハロー、ジス イズ アンドー」と言ったかと思うと、ペラペラペラとやりだした。商事会社の重役か、外資系の役員か、外務省の官僚か。さすがバッチリ決めているだけある。この人、国際的な仕事に関わっているんだ。缶太はこのような人に飲んでもらうことを名誉に思った。

紳士は英語で話しながら地下鉄、鶴舞駅のプラットホームに来た。電車の音が聞こえてきた。紳士は「じゃ、また、シー ユー レイター」と言って電話を切った。紳士は浮気相手と話していたのに、缶太はてっきり仕事の話だと思った。

電車がホームに入ってきた。到着するとドアが開き、紳士は座席に座った。さて、今から飲んで下さるのかなと思ってワクワクしていると、紳士はスマホをまた出して操作しだした。缶太は、紳士がメールを打っているのだろうと思った。紳士の指先の素早い動きは女子高生に負けないぐらいだ。

その後ずっと紳士は夢中になってスマホを操作している。缶太はその姿を見て、有能な男がエネルギッシュに仕事に打ち込んでいるのだと思い、紳士にほれぼれした。見掛け倒しでなく本物の紳士とはこの人のことだと思った。紳士の隣に座っている高校生が、紳士がのめり込んでいるゲームを見て「おじさん、うまいね」と言ったが、缶太には聞こえなかった。

缶太は周りを見回した。夕方のラッシュアワーの後で、空席がちらほらあった。

――「荒畑、荒畑。お出口は右側です」

電車が止まると、紳士の右隣が空席になり、中年の男性が二人座った。一人はカッターシャツにグレーのネクタイで、もう一人はノーネクタイだ。

「今日びっくりしたよ」ネクタイが言った。

「えっ、何かあったんですか、先生」ノーネクタイが言った。

缶太は聞き耳を立てた。

「いや今日ね、廊下を歩いてたら、加藤が廊下に痰を吐くんだよ」ネクタイが言った。

「加藤って、加藤清一ですか? 清一ならやりかねませんね」

「あいつ、公共心というものが全然分かってないよ」

「先生、ど叱ってやりましたか」

「ああ、とっ捕まえて、お前、自分の家でも痰吐くんか。廊下の雑巾がけをやれっ、て言ってやったよ」

「で、しました?」

「始め、ブツブツ言ってたけど、私がえらい剣幕で叱るもんだから、いやいやバケツに水汲んできて拭いてたよ。回りに生徒が一杯いてね。ありゃ見ものだった」

「そうですか。そりゃいいお灸を据えましたね」

「近頃の高校生は、全くけしからん奴ばかりだ。自分さえよければ人はどうでもいいと思っとる」

「そうです、そうです。廊下にゴミが落ちてても、拾おうとしないんです」

「全く。私なんか率先垂範じゃないけど、学校でゴミを見かけたらすぐ拾ってるのに」

「今の生徒は先生を見習おうとしないんですよ。勝手に先公がゴミ拾っとる、でおしまいですから」

「そうかも知れないね、でも、私は主義として拾ってるんだよ」

缶太はネクタイ先生は立派だと思った。なかなか率先垂範なんてできるわけがない。

それにしても、紳士は左手に缶太を握っていることを忘れたかのように、スマホに嵌ってしまっている。よほど仕事が忙しいのだ。部下にあれこれ指示を出しているのだろうと思った。

――「御器所、御器所。桜通線ご利用の方はお乗りかえ下さい」

数人の乗客が入れ替わり、紳士の左隣の空席に五十歳前後の女性が二人座った。一人は茶髪で、もう一人は黒髪だった。

「あなただって、全然変わってないわよ」茶髪が言った。

「何言ってるのよ。白髪だらけよ。嫌んなっちゃうわ」黒髪が言った。

「でも、いつもお綺麗だから」

「そんなことないわよ。でもね、今日さぁ、カルチャーセンターでね、『五十歳からの魅力』っていう講座に出たのよ」黒髪が言った。

「えっ、そんな講座あったの?」

「それがさぁ、講師が品があって美人でね。てっきり五十歳ぐらいかと思ったら、六十七と言うじゃない」

「化粧じゃない?」

「化粧は控えめなのよ。驚いちゃってさ」

「で、その五十歳からの魅力ってなんなのよ」

「それはさぁ、若い娘と張り合っても負けるから、内面で勝負しなさいって」

「内面?」

「だから、心を美しくするっていうことよ」

「そんなことできっこないわ」

「けど、心が顔に現れるそうよ」

「そうは思うけど、心を美しくなんて……」

「それがさぁ、簡単なのよ。人のために尽くせば美しくなるって」

「へえーぇ、嘘みたい」

「大げさに考えなくっていいんだってさ、人に親切にしてあげると美しくなるんだって」

「ほんと?」

「そうらしいの。親切にされた相手は喜ぶけれど、親切にした方も嬉しくなるんだって」

「それはそうね。親切にしてあげると自分も嬉しくなるわね」

「嬉しくなったとき、若返りのホルモンが分泌されるんだって」

「ホルモン? その講師ってどういう人?」

「名古屋医科大学の教授よ」

「教授? じゃ、間違いないわね」

「ええ、ちょっとした善行をするだけで、若返りホルモンが出るんだってさ。実験でそういう結果が出たそうよ」

「小さな善ね」

「ええ。道を聞かれたら、丁寧に教えてあげるとかさ」

「それで、美しくなれるんなら簡単ね。いいこと聞いた」

「それでさぁ、人のために何かすることないかって、講座が終わってから、ずっとチャンスを待ち構えてるのよ」

「じゃ、わたしもそうするわ」

 缶太は二人のご婦人の心意気を立派だと思った。

紳士を見ると、スマホの操作を止めて缶太を上下に強く振った。やっと飲む気になったらしい。

――「まもなく川名、川名。お出口は左側です」

電車がホームに近づいてきた。紳士はコーヒーを急いで飲むと、空になった缶太を座席のすぐ下の床に置いた。電車が止まると、紳士は缶太を置いたまま下車してしまった。

「おじさん! 僕を置きっぱなしにしないでよ」缶太が叫んだ。

しかし、ドアが閉まり、電車は発車した。缶太は怒れてきた。

「なんだあの人、紳士だと思ってたのに」

缶太は裏切られたと思った。あんな奴にコーヒーを飲まれたかと思うと悔しくなった。

 川名駅で乗客が四人降りて、三人乗ってきた。その内の一人は二十歳ぐらいの女性で、紳士が座っていた座席の反対側に座った。先生やご婦人達の目の前の座席だ。

缶太は女性を見て驚いた。

ふっくら顔の絶世の美人で、肩までかかる金髪に、青や赤髪ほどよく混じり、二、三センチのつけまつ毛、電車が揺れるたびごとに、ふんわりふわりと優雅に揺れ、丸い目玉の周りには、墨で輪郭描かれて、顔面を殴られたように見え、チャラチャラのイアリング、優美にだらりとぶら下げて、真っ赤に塗られた唇に、見た目も麗し金ピカの、ピアスが四本突き刺さり、ノースリーブのチュニックが、豊かな胸をふんわり覆い、手を見ると指輪だらけの豪華絢爛、ネイルデザイン念が入り、ピカピカ光るクリムトが、ギラつくゴッホに品良く混ざり、アールデコ調最先端、純白のショートパンツの延長線、にょっきり生足華奢に伸び、おみ足見るとギンギラギンのハイサンダル、足指のネイルデザイン満点で、キラリ、ギラリのデコデコ調。おっと、お膝にグッチのバッグ、フタがあいてて中が丸見え。ぐっちゃ、ぐちゃの中身から、本が一冊顔を出し、タイトル見ると『人は見かけが九割よ』。 

缶太はうなった。娘さんはあの本を信奉しているのだ。せめて見た目だけでも完璧にしておかなきゃ魅力的な女性になれないとでも思っているのだろうか。

ショートパンツから、しなやかに伸びる生大根が嫌でも目に入り、世の男性がよく言う「目のやり場に困る」という気持ちが分かるような気がした。九割娘はグッチから手鏡を取り出して、つけまつ毛の手入れを始めた。鏡は周りの世界を遮断している。グッチから七つ道具を取り出して、芸術作品の完成に没頭している。周りが見えない、音が聞こえない。自分の世界に埋没している。

 ――「まもなく、いりなか、いりなか。お出口は右側です」

 電車が止まると、乗り込んできた高校生の靴が鎮座していた缶太に当たり、缶太は倒れて、残っていたコーヒーが床に流れ出た。高校生は缶太が倒れたことを知ってか知らずか、奥へ入っていって座った。次に幼稚園児がママに連れられて乗ってきて、九割娘の隣に座った。

電車が走りだした。二人連れのご婦人はひそひそ話をしている。缶太は聞くとはなしに聞いていた。

「ねえ、ちょと、前の()見てよ黒髪が茶髪に目配せし 

「いやーね、近頃の娘はエチケット知らないんだから」

「親の顔が見たいってこのことね」

「だらしない親よ、きっと」

二人の先生も九割娘をちらちら見ながら話している。缶太は耳をそばだてた。

「大体、あの校長は不言実行、不言実行と勢いがいいがね、ありゃ曲者だよ」

「そうですね。カッコイイことばかり言って」

「全く」

ネクタイが顎で九割娘の方を示し、声を落として言った。

「ありゃお化けかね」

「気持ち悪いですね、ああなると」

「ありゃ、社会悪だよ。ああゆうのが蔓延すると、日本の将来は暗澹たるもんだな」

「ええ、世も末ですね」

――「この先、電車が揺れることがあります。ご注意ください」 

電車が大きく揺れ、缶太は電車の床を転がり始めた。缶太の口からよだれが垂れたようにコーヒーが床に一筋流れた。缶太は恥ずかしくなった。誰か拾ってくれないかなと思った。

「ママ、缶、転がってるよ。拾おうか?」園児が言った。

「ダメよ、ばばっちいから」

「でも……」

「いいから、ちゃんと座ってなさい」

缶太は惨めに思った。せっかく坊やが拾ってくれるというのに……。僕は転がったり止まったりして、皆の注目を一身に浴びている。耐えられない。誰か拾って下さいと願ったが、誰も拾ってくれない。電車がまたカーブした。缶太は転がっていってネクタイ先生の靴にぶつかり、靴にぴったり接触して止まった。先生は知らん顔を決め込んでノーネクタイ先生を相手に公共心だの利己主義だの日本の将来だのといきり立っている。缶太が先生の靴に接触してから、急に声が大きくなったようだ。先生は内心、缶太を憎々しく思い、どこかに転がって行ってくれないかと切望していることが、缶太には分からなかった。缶太は靴にしっかりくっついていれば、先生は気がついて拾ってくれると信じていた。なんといっても垂範先生だから。ところが垂範先生は電車が大きく揺れたドサクサに紛れて缶太を密かに蹴った。缶太は転がっていって黒髪婦人のすぐ足もとで止まった。婦人もゲジゲジかゴキブリが足にくっついて離れないような嫌ぁな気になったが、缶太は自分が嫌われていることに気がつかなかった。このご婦人なら「美人になるために」拾ってくれると思った。しかし、黒髪婦人は知らん顔だ。

――「まもなく八事、八事。名城線ご利用の方はお乗りかえです」 

 電車のスピードが制御されて、缶太は婦人の足元から離れて転がり、九割娘の前あたりで止まった。娘は、つけまつ毛と頬の手入れが終わって、イヤホンを耳にあてがい、スマホをいじっている。

缶太は考えた。先生もご婦人もいくら話に夢中になっているとはいえ、僕が床に転がっていることに気がつかないわけがない。現に坊やが拾おうかって言っていた。それなのに誰も拾ってくれない。缶太は諦めた。この先も誰も拾ってくれないだろう。このまま永遠に転がったり、止まったり、あちこちにぶつかったりして、ひと目に晒され続けるのかと思うと、人間どもが恨めしくなった。

電車は八事駅のプラットホームに滑り込み、停止した。ドアが開いた。

九割娘が立ち上がり、缶太を拾って、電車を降りた。

 ええっ、娘さんが僕を拾ってくれた。缶太は信じられなかった。缶太は恥ずかしく思った。見かけ倒しの娘さんだとばかり思っていて、一割の真の姿を見抜けなかった。一割娘さんの手は柔らかく、あたたかい。何という美しい心。永遠に持っていてもらいたいと思った。

 娘さんは改札口を出てさっそうと歩き、自販機の前で立止まり、脇にある「空き缶」と書いてある丸い穴に缶太を投げた。缶太は娘さんにサヨナラを言った。

娘さんの足音が遠のいていった。

「やあ、缶太じゃないか。偶然だね」缶吉が言った。

「ひゃぁー、驚いた。缶吉じゃないか」

 缶太はほっとした。急にコーヒーが飲みたくなった。

                                    (了)

 

 

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